二つの朝廷、六十年の戦、そして刀剣史上もっとも劇的な姿。幅広の刀身、延びた切先、後代に磨上げられて雄大な刀となった大太刀。相州風がこの時代の様式であった。
“Osuriage Mumei; relatively wide mihaba and slightly extended chu–kissaki. The shape with deep sori; itame–nagareru ji–hada jinie. Well layered gonome hamon mixed with running light notare; ashi appear and deep nioi, with round colored nie show well on the blade, with shining sunagashi and jubashiri appearing, and bright nioiguchi. Clear ōmaru short boshi in the Yamato style, which featurea yakiba shape and hanie, typical feature of the school. This is one of the best sword attributed to this school. Excellent item. “ Koshirae [mounts]: The sword in shirasaya, accompanied by an excellent handachi koshirae from the Edo period, with the saya lacquered in black and gold. All copper kanagu carry a shakudo kamon of igeta (well frame) type. The founder of the Uda School is considered to have been Kunimitsu, originally from the Uda district of Yamato Province, at the end of the Kamakura Era. All of the succeeding smiths of this school used the kanji character “Kuni” in their signatures. At some point, he moved to Etchu Province, so even though the Uda School had its foundation in the Yamato tradition, it is considered to be one of the wakimono schools from this region, mixing different styles. Since the remaining works by Kunimitsu are non-existent, his students, Kunifusa and Kunimune, are generally thought to be the true founders of this school. Both of these smiths studied under Norishige of the Etchu Province, and they were active in the late 13th century. The works of these early Uda smiths followed the style of the Yamato den, particularly in the areas of sugata and hamon. “Ko-Uda” is the term used to specify works of the Uda school made before 1394. Early blades like the present one show Yamato characteristics, as a shallow sori and a fairly high shinogi. The hamon is of nie structure with abundant nie activities such as ashi, yo, nie hotsure, sunagashi, and kuchigaiba. The sword shows the characteristics of the school and the midare-ba type hamon on a conspicuous masame and gonome hada form sunagashi and other activities.









販売店の記載のまま
(翻訳なし)
大磨上無銘の刀で、 古宇多と鑑せられる。 宇多派は鎌倉末の古入道国光を祖として、南北朝に国房・国宗・国次の刀工が活躍し、同名相継いで室町末期に至っているが、なかでも鎌倉末期乃至南北朝期のものを古宇多と汎称している。 元来が大和の流れであり、作風は大和気質がつよい。この刀は柾の目立つ肌、互の目調の乱れ刃が砂流しのかかった調子などに同派の見処がある。
脇物 · 越中
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古宇多は越中宇多派の最も早い相をさす称であり、その出自は北国にあらずして大和にある。説明書はその祖を僧体の刀工古入道国光と伝え、大和国宇陀郡より北上して鎌倉時代末期の文保頃に越中宇津の地に来住し、大和譲りの鍛刀を北国にもたらして一派を興したとする。国光には確かな在銘作が殆ど遺らず、その名は最も古い作を強い大和気質によって極める要として立つ。その子に国房・国宗があり、国次らと共に南北朝期へ系を継ぎ、同銘を代々相承して室町期に及んだ。古宇多とはこのうち鎌倉末期より南北朝の作をいい、国房はそのなかでも在銘作を遺す数少ない一人として、康応元年に上る年紀を伝える。後の友則のごとき工に至るまで、一派は個々の名よりも時代と一派とに拠って鑑せられ、極めの多くは個名ではなく古宇多の名に帰する。 作風は一派が遂に融合させなかった二様にわたる。一は終始失われぬ大和の本性で、短刀・脇指に最もよく現れる。流れごころに肌立った板目あるいはつんだ小板目に杢を交え、中直刃を基調に小互の目・浅いのたれを交え、刃縁には喰違刃・細かなほつれ・打のけが交じり、足入り、匂深く小沸つき、砂流し・金筋がかかり、帽子は直ぐに小丸あるいは焼詰めに掃きかける。今一つは相州伝がかった手で、説明書はこれを越中則重に学び江を範としたことに由来させ、南北朝の豪壮な太刀に現れる。身幅広く重ね厚く、流れごころの板目に地景・地沸つき、のたれや直刃に互の目を交えて沸よくつき、砂流し頻りに金筋入り、帽子は乱れ込みに掃きかける。両様の底に変わらぬのは地鉄であり、板目はかな色黒みをおびて処々カス立ち潤み、鍛えがつまれば白け映りが鮮やかに立つ。説明書はこの色を北国物特有の持味と呼び、刃縁につくつぶらな沸を宇多派の徴とする。後代宇多との別は、この黒く肌立つ地と沈みごころの匂口にあり、明るく冴えた真の相州物からも、より素朴な北国の工からも、これによって分かたれる。 鑑定の勘所はこの地鉄に始まり地鉄に終わる。最も相州然とした沸の豊かな作をも北国へ戻すのは黒く肌立った地と沈む匂口であり、説明書は相似が造込みに止まり純然たる相州伝の極めには至らぬことを明言する。古宇多に細かく明るく地景の細やかなものと、肌立って地景大きく黒味のものとの二様があり、説明書は前者を義弘、後者を則重の流れに分かつ。主要工としては、祖たる国光が大和気質と北国の地とを併せて一派の基を据え、国房は鍛えのつまった地鉄を固有の見どころとして相州伝を宇多の作風に引き入れ、国宗はやや肌立った地によってこれと対をなす。これに国次・友則らが続くが、説明書は友則を一派中でも技術の高い工と序しつつ棟梁とはせず、他は総じて古宇多の名に括る。在銘作が稀であるため、現存の多くは大磨上無銘の極めであり、その指定はおおむね重要刀剣の階にあって、国宝も重要文化財も伝わらず、大名の所伝も乏しい。来歴の知られる例は黒川古文化研究所や旧蔵家を経た数口にとどまる。されば古宇多の鑑賞は名物の連なりによるのではなく、作そのものと、大和の鍛刀がいかに北国に根づいたかを語る地鉄に拠る。年紀の上がる在銘の一口が世に出ることは稀であり、その作はこの二つの伝統が北国で出会った様を実際に見られる場所である。 詳しく見る →
南北朝時代
二つの朝廷、六十年の戦、そして刀剣史上もっとも劇的な姿。幅広の刀身、延びた切先、後代に磨上げられて雄大な刀となった大太刀。相州風がこの時代の様式であった。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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大磨上無銘の刀で、 古宇多と鑑せられる。 宇多派は鎌倉末の古入道国光を祖として、南北朝に国房・国宗・国次の刀 工が活躍し、同名相継いで室町末期に至っているが、なかでも鎌倉末期乃至南北朝期のものを古宇多と汎称している。 元 来が大和の流れであり、作風は大和気質がつよい。この刀は柾の目立つ肌、互の目調の乱れ刃が砂流しのかかった調子な どに同派の見処がある。