Stock No:WA-020122Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)/Period(Jidai): Hizen(Saga),Middle Edo period 1661~Blade length(Cutting edge): 54.2cmCurve(SORI): 1.4cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.21cmThickness at the Moto-Kasane: 0.77cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.80cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmHabaki: Two parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered,Kiriyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri, Iorimune, Chu-kissakiJigane(Hada): Koitame and MokumeTemper patterns(Hamon): SuguhaTemper patterns in the point(Bohshi): Sugu then Ko-Maru round tipRegistration Card: Tokyo【Additional Information】肥前忠吉家嫡流二代目、近江大掾忠広は、初代忠吉の嫡子で平作郎といい、寛永九年から作刀が見られ、同十八年七月に近江大掾を受領、元禄六年八十一歳で歿している。この間作刀歴は六十有余年におよび、肥前刀中でも最も多くの作品を遺している。陸奥守忠吉は、近江大掾忠広の子で、万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年には陸奥守に改名。貞享三年、八十歳の高齢をもって天寿を全うした父に先立って、五十歳の若さで没しています。二代近江大掾忠広が嫡子陸奥守忠吉(三代目)の亡き後は孫の近江大掾忠吉(四代目)を指導したと伝えられています。このように陸奥守忠吉は作刀期間が短かった事、父の代作に任じていた期間が長かったことで、在銘遺作は極めて少なく、特に本品のような忠広と忠吉の合作刀で二人の在銘品は大変貴重な御刀ということになります。この脇差は、身幅重ね尋常、鎬筋凛とし、適度に反って肥前刀らしく上品な姿を呈した美しい御刀です。鍛えは、小板目肌がよくつみ杢目肌風になる明るく冴えた地金です。刃文は、二人が最も得意とする小沸帯状について明るい匂いが連なる直刃を焼いて、小沸が均一で冴えた匂い口は柔らかく、刃縁には細かな金筋、砂流しかかり働きます。帽子はそのまま小丸へ返ります。刻銘は、確りと深い鏨で刻さており錆味も良いです。このように、近江大掾忠廣、陸奥守忠吉の端正な仕上がりの一振りで、二人の特色が顕著に示された脇差の優品です。金着せ二重はばき、特別保存刀剣鑑定書。





新刀 · 肥前 · 江戸
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在2点販売中
土佐守忠吉は、いかなる刀工であるのか不明な部分が多く、諸説紛々として定かではない。一説に初代忠吉の弟ともまた弟子ともいい、或は一族・門人ともいうが、いずれも明らかではない。しかし初代忠吉とは非常に近い、密接な関係にあったことだけは間違いないようである。初代忠吉が寛永元年に武蔵大掾を受領して忠広と改めた際に忠吉銘を譲られ、後に土佐掾、さらには土佐守を受領したと伝える。寛永五年紀の作刀に任官銘がないことからして、受領はその後と思われる。後に長崎へ移住したとも伝えている。その半生を本家初代忠吉の協力者として終ったためか、現存する作刀は稀である。
作風は、小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る鍛えに、丁子に互の目・腰のひらいた互の目・矢筈風の刃などを交えた乱れ刃を焼き、足長く入り、僅かに葉を交え、匂深く、小沸よくつき、総体に砂流しがかかるものを基調とする。帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。彫物を伴う作もあり、旗鉾や真の倶利迦羅を見るものがある。また、のたれに互の目を交え、直江志津風の出来を呈するものも存する。
土佐守忠吉の作は現存稀ながら、地鉄がよくつんで精美な肌合を呈し、焼刃も多種の刃を交えて華やかに乱れ、小沸よくついて匂口明るい状を示すものは特筆される。地がねよくつみ、覇気ある乱れ刃で出来のよいものは会心の一口と称すべく、優れた出来映えを見せている。彫物を伴う作は、肥前刀の彫物を研究する上においても資料的に頗る貴重である。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在115点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
No cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
Stock No:WA-020122Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)/Period(Jidai): Hizen(Saga),Middle Edo period 1661~Blade length(Cutting edge): 54.2cmCurve(SORI): 1.4cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.21cmThickness at the Moto-Kasane: 0.77cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.80cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmHabaki: Two parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered,Kiriyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri, Iorimune, Chu-kissakiJigane(Hada): Koitame and MokumeTemper patterns(Hamon): SuguhaTemper patterns in the point(Bohshi): Sugu then Ko-Maru round tipRegistration Card: Tokyo【Additional Information】肥前忠吉家嫡流二代目、近江大掾忠広は、初代忠吉の嫡子で平作郎といい、寛永九年から作刀が見られ、同十八年七月に近江大掾を受領、元禄六年八十一歳で歿している。この間作刀歴は六十有余年におよび、肥前刀中でも最も多くの作品を遺している。陸奥守忠吉は、近江大掾忠広の子で、万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年には陸奥守に改名。貞享三年、八十歳の高齢をもって天寿を全うした父に先立って、五十歳の若さで没しています。二代近江大掾忠広が嫡子陸奥守忠吉(三代目)の亡き後は孫の近江大掾忠吉(四代目)を指導したと伝えられています。このように陸奥守忠吉は作刀期間が短かった事、父の代作に任じていた期間が長かったことで、在銘遺作は極めて少なく、特に本品のような忠広と忠吉の合作刀で二人の在銘品は大変貴重な御刀ということになります。この脇差は、身幅重ね尋常、鎬筋凛とし、適度に反って肥前刀らしく上品な姿を呈した美しい御刀です。鍛えは、小板目肌がよくつみ杢目肌風になる明るく冴えた地金です。刃文は、二人が最も得意とする小沸帯状について明るい匂いが連なる直刃を焼いて、小沸が均一で冴えた匂い口は柔らかく、刃縁には細かな金筋、砂流しかかり働きます。帽子はそのまま小丸へ返ります。刻銘は、確りと深い鏨で刻さており錆味も良いです。このように、近江大掾忠廣、陸奥守忠吉の端正な仕上がりの一振りで、二人の特色が顕著に示された脇差の優品です。金着せ二重はばき、特別保存刀剣鑑定書。





新刀 · 肥前 · 江戸
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
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土佐守忠吉は、いかなる刀工であるのか不明な部分が多く、諸説紛々として定かではない。一説に初代忠吉の弟ともまた弟子ともいい、或は一族・門人ともいうが、いずれも明らかではない。しかし初代忠吉とは非常に近い、密接な関係にあったことだけは間違いないようである。初代忠吉が寛永元年に武蔵大掾を受領して忠広と改めた際に忠吉銘を譲られ、後に土佐掾、さらには土佐守を受領したと伝える。寛永五年紀の作刀に任官銘がないことからして、受領はその後と思われる。後に長崎へ移住したとも伝えている。その半生を本家初代忠吉の協力者として終ったためか、現存する作刀は稀である。
作風は、小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る鍛えに、丁子に互の目・腰のひらいた互の目・矢筈風の刃などを交えた乱れ刃を焼き、足長く入り、僅かに葉を交え、匂深く、小沸よくつき、総体に砂流しがかかるものを基調とする。帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。彫物を伴う作もあり、旗鉾や真の倶利迦羅を見るものがある。また、のたれに互の目を交え、直江志津風の出来を呈するものも存する。
土佐守忠吉の作は現存稀ながら、地鉄がよくつんで精美な肌合を呈し、焼刃も多種の刃を交えて華やかに乱れ、小沸よくついて匂口明るい状を示すものは特筆される。地がねよくつみ、覇気ある乱れ刃で出来のよいものは会心の一口と称すべく、優れた出来映えを見せている。彫物を伴う作は、肥前刀の彫物を研究する上においても資料的に頗る貴重である。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在115点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
No cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).