土佐守忠吉は、いかなる刀工であるのか不明な部分が多く、諸説紛々として定かではない。一説に初代忠吉の弟ともまた弟子ともいい、或は一族・門人ともいうが、いずれも明らかではない。しかし初代忠吉とは非常に近い、密接な関係にあったことだけは間違いないようである。初代忠吉が寛永元年に武蔵大掾を受領して忠広と改めた際に忠吉銘を譲られ、後に土佐掾、さらには土佐守を受領したと伝える。寛永五年紀の作刀に任官銘がないことからして、受領はその後と思われる。後に長崎へ移住したとも伝えている。その半生を本家初代忠吉の協力者として終ったためか、現存する作刀は稀である。
作風は、小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る鍛えに、丁子に互の目・腰のひらいた互の目・矢筈風の刃などを交えた乱れ刃を焼き、足長く入り、僅かに葉を交え、匂深く、小沸よくつき、総体に砂流しがかかるものを基調とする。帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。彫物を伴う作もあり、旗鉾や真の倶利迦羅を見るものがある。また、のたれに互の目を交え、直江志津風の出来を呈するものも存する。
土佐守忠吉の作は現存稀ながら、地鉄がよくつんで精美な肌合を呈し、焼刃も多種の刃を交えて華やかに乱れ、小沸よくついて匂口明るい状を示すものは特筆される。地がねよくつみ、覇気ある乱れ刃で出来のよいものは会心の一口と称すべく、優れた出来映えを見せている。彫物を伴う作は、肥前刀の彫物を研究する上においても資料的に頗る貴重である。