肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
陸奥守忠吉は、名を橋本新三郎といい、寛永十四年(1637年)に近江大掾忠広の長男として生まれ、万治三年(1660年)十月に陸奥大掾を受領、翌年の寛文元年(1661年)八月に陸奥守に転任、父近江大掾忠広より7年早く、貞享三年(1686年)一月に50歳で没したため、ほとんど父の代作に従事していたものと考えられる。したがって、長命であった祖父や父と比べて三代忠吉自身の作刀は少ないが、出来の優れた作刀が多く、地鉄の精緻や地刃の冴えにおいては初代を凌駕するといわれており、価格に於いても、初代忠吉よりも高く評価されている。この刀は、ニ尺四寸七分の長さに、身幅3.2cmと広く、反りやや浅い寛文頃の姿で、小板目肌がよく錬れて、地沸微塵に厚くつき、地景細かく入る究極に美しい冴えた地鉄に、互の目に丁子を交じえた華やかな刃を焼き、足・葉太く頻りに入り、小沸深くよくつき、金筋・砂流し掛り、匂深く、匂口明るく冴え渡る最高傑作である。
陸奥守忠吉は近江大掾忠広の嫡子で、 忠吉三代目を継いでいる。 忠吉名は土佐守忠吉歿後、 土佐守家が本家に忠吉銘を返上したためであ る。 万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年には陸奥守に転じ、貞享三年、二代忠広に先立つこと七年、五十歳で歿している。 作品が比較的 少ないのは作刀期間が割合に短かったことと併せて、父の代作に任じていたためであろう。作風は父よりもむしろ祖父の初代忠吉に近く、直 刃を最も得意としており、 他に丁子乱れも上手であり、その非凡な技術を遺憾無く発揮している。 この刀は、小板目肌がよくつんで、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入るなどの肌合となった鍛えに、刃文は丁子を主調として焼の 高めの華やかな乱れ刃を焼き、砂流しがかかるなどの出来口を示している。地鉄に強い鉄味を示し、帽子の返りは深く焼き下げて棟に寄るなど 三代忠吉の特色に加え、同工にはさほど類のない出入りが目立って変化のある焼刃は、匂が深く沸が厚くついて砂流しがかかり、地刃共に 明るく冴えるなど、優れた出来映えを示している。さらに、茎先が入山形である点とその銘振りから同工の比較的初期の作とせられるもので、 三代忠吉の一作風と併せて、早期において既に優れた技術を持ち合わせていたことが窺われる一口である。


陸奥守忠吉は近江大掾忠広の嫡子で、 忠吉三代目を継いでいる。 忠吉名は土佐守忠吉歿後、 土佐守家が本家に忠吉銘を返上したためであ る。 万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年には陸奥守に転じ、貞享三年、二代忠広に先立つこと七年、五十歳で歿している。 作品が比較的 少ないのは作刀期間が割合に短かったことと併せて、父の代作に任じていたためであろう。作風は父よりもむしろ祖父の初代忠吉に近く、直 刃を最も得意としており、 他に丁子乱れも上手であり、その非凡な技術を遺憾無く発揮している。 この刀は、小板目肌がよくつんで、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入るなどの肌合となった鍛えに、刃文は丁子を主調として焼の 高めの華やかな乱れ刃を焼き、砂流しがかかるなどの出来口を示している。地鉄に強い鉄味を示し、帽子の返りは深く焼き下げて棟に寄るなど 三代忠吉の特色に加え、同工にはさほど類のない出入りが目立って変化のある焼刃は、匂が深く沸が厚くついて砂流しがかかり、地刃共に 明るく冴えるなど、優れた出来映えを示している。さらに、茎先が入山形である点とその銘振りから同工の比較的初期の作とせられるもので、 三代忠吉の一作風と併せて、早期において既に優れた技術を持ち合わせていたことが窺われる一口である。
新刀 · 肥前 · 江戸
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在1点販売中
土佐守忠吉は、いかなる刀工であるのか不明な部分が多く、諸説紛々として定かではない。一説に初代忠吉の弟ともまた弟子ともいい、或は一族・門人ともいうが、いずれも明らかではない。しかし初代忠吉とは非常に近い、密接な関係にあったことだけは間違いないようである。初代忠吉が寛永元年に武蔵大掾を受領して忠広と改めた際に忠吉銘を譲られ、後に土佐掾、さらには土佐守を受領したと伝える。寛永五年紀の作刀に任官銘がないことからして、受領はその後と思われる。後に長崎へ移住したとも伝えている。その半生を本家初代忠吉の協力者として終ったためか、現存する作刀は稀である。
作風は、小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る鍛えに、丁子に互の目・腰のひらいた互の目・矢筈風の刃などを交えた乱れ刃を焼き、足長く入り、僅かに葉を交え、匂深く、小沸よくつき、総体に砂流しがかかるものを基調とする。帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。彫物を伴う作もあり、旗鉾や真の倶利迦羅を見るものがある。また、のたれに互の目を交え、直江志津風の出来を呈するものも存する。
土佐守忠吉の作は現存稀ながら、地鉄がよくつんで精美な肌合を呈し、焼刃も多種の刃を交えて華やかに乱れ、小沸よくついて匂口明るい状を示すものは特筆される。地がねよくつみ、覇気ある乱れ刃で出来のよいものは会心の一口と称すべく、優れた出来映えを見せている。彫物を伴う作は、肥前刀の彫物を研究する上においても資料的に頗る貴重である。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在137点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品発送後の返品・交換・キャンセルには、基本的に対応しておりません。商品に重大な瑕疵がある場合のみ、当サイトでご購入いただいた商品到着後3日以内であれば返品•交換が可能です。
陸奥守忠吉は、名を橋本新三郎といい、寛永十四年(1637年)に近江大掾忠広の長男として生まれ、万治三年(1660年)十月に陸奥大掾を受領、翌年の寛文元年(1661年)八月に陸奥守に転任、父近江大掾忠広より7年早く、貞享三年(1686年)一月に50歳で没したため、ほとんど父の代作に従事していたものと考えられる。したがって、長命であった祖父や父と比べて三代忠吉自身の作刀は少ないが、出来の優れた作刀が多く、地鉄の精緻や地刃の冴えにおいては初代を凌駕するといわれており、価格に於いても、初代忠吉よりも高く評価されている。この刀は、ニ尺四寸七分の長さに、身幅3.2cmと広く、反りやや浅い寛文頃の姿で、小板目肌がよく錬れて、地沸微塵に厚くつき、地景細かく入る究極に美しい冴えた地鉄に、互の目に丁子を交じえた華やかな刃を焼き、足・葉太く頻りに入り、小沸深くよくつき、金筋・砂流し掛り、匂深く、匂口明るく冴え渡る最高傑作である。
陸奥守忠吉は近江大掾忠広の嫡子で、 忠吉三代目を継いでいる。 忠吉名は土佐守忠吉歿後、 土佐守家が本家に忠吉銘を返上したためであ る。 万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年には陸奥守に転じ、貞享三年、二代忠広に先立つこと七年、五十歳で歿している。 作品が比較的 少ないのは作刀期間が割合に短かったことと併せて、父の代作に任じていたためであろう。作風は父よりもむしろ祖父の初代忠吉に近く、直 刃を最も得意としており、 他に丁子乱れも上手であり、その非凡な技術を遺憾無く発揮している。 この刀は、小板目肌がよくつんで、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入るなどの肌合となった鍛えに、刃文は丁子を主調として焼の 高めの華やかな乱れ刃を焼き、砂流しがかかるなどの出来口を示している。地鉄に強い鉄味を示し、帽子の返りは深く焼き下げて棟に寄るなど 三代忠吉の特色に加え、同工にはさほど類のない出入りが目立って変化のある焼刃は、匂が深く沸が厚くついて砂流しがかかり、地刃共に 明るく冴えるなど、優れた出来映えを示している。さらに、茎先が入山形である点とその銘振りから同工の比較的初期の作とせられるもので、 三代忠吉の一作風と併せて、早期において既に優れた技術を持ち合わせていたことが窺われる一口である。


陸奥守忠吉は近江大掾忠広の嫡子で、 忠吉三代目を継いでいる。 忠吉名は土佐守忠吉歿後、 土佐守家が本家に忠吉銘を返上したためであ る。 万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年には陸奥守に転じ、貞享三年、二代忠広に先立つこと七年、五十歳で歿している。 作品が比較的 少ないのは作刀期間が割合に短かったことと併せて、父の代作に任じていたためであろう。作風は父よりもむしろ祖父の初代忠吉に近く、直 刃を最も得意としており、 他に丁子乱れも上手であり、その非凡な技術を遺憾無く発揮している。 この刀は、小板目肌がよくつんで、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入るなどの肌合となった鍛えに、刃文は丁子を主調として焼の 高めの華やかな乱れ刃を焼き、砂流しがかかるなどの出来口を示している。地鉄に強い鉄味を示し、帽子の返りは深く焼き下げて棟に寄るなど 三代忠吉の特色に加え、同工にはさほど類のない出入りが目立って変化のある焼刃は、匂が深く沸が厚くついて砂流しがかかり、地刃共に 明るく冴えるなど、優れた出来映えを示している。さらに、茎先が入山形である点とその銘振りから同工の比較的初期の作とせられるもので、 三代忠吉の一作風と併せて、早期において既に優れた技術を持ち合わせていたことが窺われる一口である。
新刀 · 肥前 · 江戸
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
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土佐守忠吉は、いかなる刀工であるのか不明な部分が多く、諸説紛々として定かではない。一説に初代忠吉の弟ともまた弟子ともいい、或は一族・門人ともいうが、いずれも明らかではない。しかし初代忠吉とは非常に近い、密接な関係にあったことだけは間違いないようである。初代忠吉が寛永元年に武蔵大掾を受領して忠広と改めた際に忠吉銘を譲られ、後に土佐掾、さらには土佐守を受領したと伝える。寛永五年紀の作刀に任官銘がないことからして、受領はその後と思われる。後に長崎へ移住したとも伝えている。その半生を本家初代忠吉の協力者として終ったためか、現存する作刀は稀である。
作風は、小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る鍛えに、丁子に互の目・腰のひらいた互の目・矢筈風の刃などを交えた乱れ刃を焼き、足長く入り、僅かに葉を交え、匂深く、小沸よくつき、総体に砂流しがかかるものを基調とする。帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。彫物を伴う作もあり、旗鉾や真の倶利迦羅を見るものがある。また、のたれに互の目を交え、直江志津風の出来を呈するものも存する。
土佐守忠吉の作は現存稀ながら、地鉄がよくつんで精美な肌合を呈し、焼刃も多種の刃を交えて華やかに乱れ、小沸よくついて匂口明るい状を示すものは特筆される。地がねよくつみ、覇気ある乱れ刃で出来のよいものは会心の一口と称すべく、優れた出来映えを見せている。彫物を伴う作は、肥前刀の彫物を研究する上においても資料的に頗る貴重である。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
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肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品発送後の返品・交換・キャンセルには、基本的に対応しておりません。商品に重大な瑕疵がある場合のみ、当サイトでご購入いただいた商品到着後3日以内であれば返品•交換が可能です。