1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
Certificate reading — 銘 備前介宗次 文久二年二月日
取扱店 銀座誠友堂









販売店の記載のまま
固山宗次 · 武蔵 · 1830-1870頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位17%
現在6点販売中
固山宗次は享和三年に奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛、号を一専斎・精良斎といった。説明書は、その師は米沢の加藤綱英といわれると伝えつつ、作風から勘案すれば「むしろ弟の加藤綱俊の影響力が大きい」[[c:1]]と付け加える。初め白河松平家に仕え、藩が移封されると勢州桑名藩の藩工となって江戸麻布永坂に住し、弘化二年に備前介を受領した。文政後半から明治初年に至るまで作刀し、西山・固山・備前介藤原宗次など数様に銘を切り、説明書は現存作が甚だ多いとする。その生涯を説明書は一言で「作風は一貫して備前伝」[[c:2]]とまとめる。
本工の特色は備前風の丁子・互の目丁子である。丁子に互の目・角張った刃・尖りごころの刃・小丁子・小互の目を交え、足長くよく入り、ある説明はその互の目丁子を備前兼光にみる作風とする。匂勝ちに小沸つき、説明書が最も多く立ち返るのは匂口で、大半の作に明るく冴え、数口ではさらに締まりごころとされる。最も華やかな調子に仕上げたある天保の刀について、説明書は「常にも増して華やかな丁子主調の乱れ刃に仕上げており」[[c:3]]と評し、上半の金筋と明るい匂口を挙げる。
地鉄もまた変わらぬところである。常の地鉄はよくつんだ小板目で、細かに鍛えて無地風に見えるほどであり、地沸細かにつき、時に細かな地景が入る。説明書はこの二つを併せて本工の成功を要約し、「地鉄のよくつんだ綺麗な鍛えに、匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している」[[c:4]]とする。帽子は乱れ込んで小丸に返り、時に先尖って掃きかける。彫物は棒樋あるいは二筋樋で、時に梵字・護摩箸・倶利迦羅や神号を伴い、男義次がその一部に彫物を施した。
本流のかたわら、彼は意識的な写しの工でもあった。説明書はある大小について「この大小は宗次の写し物の典型であり」[[c:5]]とし、刀は末備前、とくに与三左衛門尉祐定に、脇指は応永備前の盛光・康光に倣い、映りを出すことに成功しているとする。天保十一年の脇指は、相州鎌倉の荏柄神社の社宝である正宗所伝の庖丁形の大振りな脇指を写し、江戸芝神明宮に奉納されたものである。別の作域として天保年間の身幅広く長寸の作があり、重ね厚く、地鉄は常の緊まった肌と相違して板目に杢・流れ肌を交えて肌立ち、地沸・地景がつく。説明書はこの態を天保の作にまま見るところとする。静かな直刃の作も残るが稀である。
幕末における彼の位置は、備前伝の完成度とその刀身の記録の豊かさにある。説明書は「備前伝の名手として相当に有名であったようで」[[c:6]]と記し、古河侯の命によって大小を作っている。多くが千住などで試された山田家の截断銘を帯びる。一刀は予州宇和島藩主伊達宗城侯の命により外国船の環鉄を以て鍛えられ、説明書はその銘文を「幕末史の上からも貴重」[[c:7]]とする。無地風に近い小板目に焼いた明るい丁子乱れは、彼が学んだ鎌倉の作の深く柔らかい匂口と分かつところである。
収集の上では、宗次は稀品というよりも在銘の豊かな名工である。藤代は上々作とする。国宝・重要文化財はなく、指定の上の位置は重要刀剣にあり、五十二口が指定され、すべて在銘で、幅広の丁子乱れの刀が典型作・代表作とされる。記録される伝来は古河侯とその藩士、庄内藩の松平親懐、宇和島の伊達宗城侯に及ぶ。多く作られて多く残るため、出来のよい在銘・年紀の宗次は折に触れて世に出、記録の確かな試し銘のある幕末備前伝の一刀を収集家が手にする、近づきやすい道の一つであり続けている。
宗次の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在17点販売中
固山宗次は享和三年奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛(惣兵衛)といい、一専斎・精良斎と号した。兄に宗平・宗俊がいる。師は加藤綱英と伝えられるが、その作風から勘案すれば、むしろ加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初めは白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封の後は、江戸に住して桑名藩工として作刀し、その居住地は麻布永坂であった。弘化二年に備前介を受領している。作刀期間は文政の後半から明治初年の頃までに亘り、その遺例は非常に多い。十九世紀中頃、新々刀の世にあって備前伝を一貫して標榜し、藩の庇護のもと奥州出身の一工が江戸において備前復古の作風を遂げた点に、本系の出発がある。門人の泰龍斎宗寛は文政初年に大野平蔵の子として奥州白河城下に生まれ、宗次を鍛刀の師とした。後に生まれ故郷の阿武隈川を姓に用いて阿武隈川宗寛と銘し、嘉永初年頃から下総国古河藩の抱え工となり、安政四年八月頃から銘を楷書体から隷書体へ改め、明治十六年一月に歿している。 作風は一貫して備前伝で、よくつんだ綺麗な鍛えに匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している。地鉄は小板目肌がよくつみ、ときに板目が総体に流れ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く映り立つものがある。刃文は丁子・互の目丁子を基調に、小丁子・尖り刃・角ばる刃・小互の目など多種の刃を交え、足長くよく入り、匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しや金筋がかかり、匂口が明るく冴える。見分けの要は、後期作に見る丁子の肩を並べて整然と焼いた型押し風の刃取りと、前期の天保年間に多い焼に高低のある変化に富んだ華やかな乱れとの差にあり、後者には沸の強くつくもの、肌目の立つ強い鍛えがまま見られる。帽子は乱れ込んで小丸、あるいは先がくびれて地蔵風に丸く返るものがあり、同工独特の見どころとされる。截断銘を伴う作が多く、千住での試し斬りに係り、伊賀乗重・山田浅右衛門・後藤新太郎・後藤利義らの名が銘に見える。門系には宗寛のほか、截断銘に名の挙がる舞鶴友英、また「宗」字を用い茎の鑢目を切りとする点から弟子と推される金剛斎宗弘がいる。 鑑定の要は、新々刀期の身幅広く重ね厚く大鋒に結んだ豪壮な姿に、明るく冴えた備前伝の丁子乱れを焼く点にあり、前期は変化に富み、後期は小模様の刃が連れて型押し風となる作域の推移を押さえることにある。代表作には、楠正成所持と伝える国宝小龍景光を生ぶの状態に再現して写し、門弟宗寛が倶利伽羅と長梵字を彫った弘化四年の一口があり、宗次が末備前・応永備前に倣う備前物を多く遺したことを示す。また相州荏柄天満宮の社宝たる正宗庖丁を写し、金工東龍斎清寿が本歌同様の彫を加えた天保十一年の奉納脇指は、江戸の両巨匠の合作として稀有であり、宗弘の同手の写しも存する。截断銘に見える伊賀乗重は尾張藩付家老成瀬家の臣で、様斬の技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次・泰龍斎宗寛・舞鶴友英に習い、幕末の武家目利き四天王の一人に数えられた人物である。江戸にあって備前丁子を復興し、多くの遺例と確かな技倆を伝えた本系は、新々刀備前伝の一典型として位置づけられる。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
¥1,700,000