Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 江戸後期において最も截断に優れた刀を製作したと謳われる固山宗次は、文政十三年末から天保初頃年に江戸へ出、名手長運斎綱俊に就いて鍛刀技術を錬磨し、試刀家伊賀乗重や山田浅右衛門とも交流してその助言を取り入れ刃味を探求した。天保八年頃には��桑名藩工に迎えられ、弘化二年に備前介を受領、大慶直胤、源清麿、左行秀などに比肩する実力と人気を誇った。


Koyama Munetsugu (shinshinto Bizen-den, Shirakawa / Edo) · 武蔵 · 1830-1870頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位17%
現在7点販売中
固山宗次は、享和三年に奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛、号を一専斎・精良斎といい、江戸時代の終わりに備前伝復古の第一人者となった。説明書は、その師は米沢の加藤綱英といわれると伝えつつ、その作風から勘案すれば「むしろ弟の加藤綱俊の影響力が大きい」[[c:1]]と慎重に付け加える。初め白河松平家に仕え、藩が移封されると勢州桑名藩の藩工となって江戸麻布永坂に住し、弘化二年に備前介を受領、文政後半から明治初年に至るまで作刀し、西山・固山・備前介藤原宗次など数様に銘を切った。その遺例は新々刀の工のうちでも甚だ多く、天保・嘉永・安政・慶応に亘って年紀が明らかであり、説明書はその作風が「作風は一貫して備前伝」[[c:2]]であったと評する。
本工の特徴の手は備前風の丁子・互の目丁子で、その作を何よりも分かつ見どころである。丁子に互の目・尖りごころの刃・小丁子・小互の目を交え、足長くよく入り、説明書はこの作域を鎌倉の備前兼光に通うものとする。一貫して変わらず、彼が範を求めた古作と分かつのは匂口であって、匂勝ちに締まって明るく冴え、小沸よくつき、刃中の明るい点こそ極めの繰り返し挙げるところである。ある天保の刀を、最も華やかな調子に仕上げたものとして、説明書は「常にも増して華やかな丁子主調の乱れ刃に仕上げており」[[c:3]]と評し、匂口ふっくらとして柔らか味があり、刃中が明るいとする。
地鉄もまた終始変わらぬところである。常の地鉄はよくつんだ小板目で、細かに綺麗に鍛えて無地風に見えるほどであり、地沸細かにつき、時に細かな地景が入る。説明書はこの二つを併せて本工の成功を要約し、「地鉄のよくつんだ綺麗な鍛えに、匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している」[[c:4]]とする。つまり緊まって綺麗な地鉄に匂勝ちの丁子乱れを焼き上げた、というのである。帽子は乱れ込んで小丸に返り、時に先尖って掃きかけ、彫物はある場合棒樋に添樋、時に梵字・護摩箸・倶利迦羅や神号を伴う。
本流のかたわら、彼は意識的な写しの工でもあり、説明書はその写し物を直に記す。ある大小を写し物の典型とし、刀は末備前ことに与三左衛門尉祐定を、脇指は応永備前の盛光・光を写したもので、短い刀身に映りを出すことに成功しているとする。別の作域として、天保年間の幅広・長寸・大鋒の作があり、身幅広く重ね厚く、地鉄は常々の緊まった肌とは相違して、板目に杢・流れ肌を交えて肌立ち、地沸・地景が一段と力強い感を与え、説明書はこの態が天保の作にまま見るところとする。より静かな直刃・直刃調の小調子も残り、本工の手のうち最も稀なものである。在銘・年紀の明らかな工であるから、宗次をめぐる鑑賞の問いは極めにあらず、その出来の質にあり、師についても説明書は同じ正直さで、その手がむしろ加藤綱俊に負うところが大きいと記す。
彼の幕末における位置を示すのは、備前伝復古の完成度と、その刀身の記録の豊かさである。多くが千住などで試された山田家の截断銘を帯び、息義次がその一部に彫物を施した。一刀は予州宇和島藩主伊達宗城侯の命により、外国船の折れた桅の環鉄を以て鍛えられ、説明書はその銘文を「幕末史の上からも貴重」[[c:5]]とする。明るく締まった丁子乱れと、その下の無地風に近い小板目は、彼が写した鎌倉の手本の深く柔らかい匂口と分かち、新々刀の備前伝の工の筆頭に彼を据える。
収集の観点では、宗次は稀品というよりは在銘の豊かな名工である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、重要文化財もない。記録の上の位置はもっぱら重要刀剣にあり、その作はよく代表され、幅広の丁子乱れの刀を本工の典型作・代表作とし、ことに匂深く匂口の明るいものを地刃ともに健全な優品とする。その作は美術館よりも来歴の明らかな手を経ており、記録される伝来は古河藩主、庄内藩家老松平親懐、宇和島の伊達宗城侯に及び、一口は鎌倉の荏柄神社に長く伝わった。多く作られて多く残り、いずれも取引の及ぶ級にあるため、出来のよい在銘・年紀の宗次は同格のいかなる名工よりも世に出ることが多く、記録の確かな、試し斬りまで備えた幕末備前伝の一刀を収集家が手にする、最も近づきやすい道の一つであり続けている。
宗次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在18点販売中
固山宗次は享和三年奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛(惣兵衛)といい、一専斎・精良斎と号した。兄に宗平・宗俊がいる。師は加藤綱英と伝えられるが、その作風から勘案すれば、むしろ加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初めは白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封の後は、江戸に住して桑名藩工として作刀し、その居住地は麻布永坂であった。弘化二年に備前介を受領している。作刀期間は文政の後半から明治初年の頃までに亘り、その遺例は非常に多い。十九世紀中頃、新々刀の世にあって備前伝を一貫して標榜し、藩の庇護のもと奥州出身の一工が江戸において備前復古の作風を遂げた点に、本系の出発がある。門人の泰龍斎宗寛は文政初年に大野平蔵の子として奥州白河城下に生まれ、宗次を鍛刀の師とした。後に生まれ故郷の阿武隈川を姓に用いて阿武隈川宗寛と銘し、嘉永初年頃から下総国古河藩の抱え工となり、安政四年八月頃から銘を楷書体から隷書体へ改め、明治十六年一月に歿している。 作風は一貫して備前伝で、よくつんだ綺麗な鍛えに匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している。地鉄は小板目肌がよくつみ、ときに板目が総体に流れ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く映り立つものがある。刃文は丁子・互の目丁子を基調に、小丁子・尖り刃・角ばる刃・小互の目など多種の刃を交え、足長くよく入り、匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しや金筋がかかり、匂口が明るく冴える。見分けの要は、後期作に見る丁子の肩を並べて整然と焼いた型押し風の刃取りと、前期の天保年間に多い焼に高低のある変化に富んだ華やかな乱れとの差にあり、後者には沸の強くつくもの、肌目の立つ強い鍛えがまま見られる。帽子は乱れ込んで小丸、あるいは先がくびれて地蔵風に丸く返るものがあり、同工独特の見どころとされる。截断銘を伴う作が多く、千住での試し斬りに係り、伊賀乗重・山田浅右衛門・後藤新太郎・後藤利義らの名が銘に見える。門系には宗寛のほか、截断銘に名の挙がる舞鶴友英、また「宗」字を用い茎の鑢目を切りとする点から弟子と推される金剛斎宗弘がいる。 鑑定の要は、新々刀期の身幅広く重ね厚く大鋒に結んだ豪壮な姿に、明るく冴えた備前伝の丁子乱れを焼く点にあり、前期は変化に富み、後期は小模様の刃が連れて型押し風となる作域の推移を押さえることにある。代表作には、楠正成所持と伝える国宝小龍景光を生ぶの状態に再現して写し、門弟宗寛が倶利伽羅と長梵字を彫った弘化四年の一口があり、宗次が末備前・応永備前に倣う備前物を多く遺したことを示す。また相州荏柄天満宮の社宝たる正宗庖丁を写し、金工東龍斎清寿が本歌同様の彫を加えた天保十一年の奉納脇指は、江戸の両巨匠の合作として稀有であり、宗弘の同手の写しも存する。截断銘に見える伊賀乗重は尾張藩付家老成瀬家の臣で、様斬の技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次・泰龍斎宗寛・舞鶴友英に習い、幕末の武家目利き四天王の一人に数えられた人物である。江戸にあって備前丁子を復興し、多くの遺例と確かな技倆を伝えた本系は、新々刀備前伝の一典型として位置づけられる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 江戸後期において最も截断に優れた刀を製作したと謳われる固山宗次は、文政十三年末から天保初頃年に江戸へ出、名手長運斎綱俊に就いて鍛刀技術を錬磨し、試刀家伊賀乗重や山田浅右衛門とも交流してその助言を取り入れ刃味を探求した。天保八年頃には��桑名藩工に迎えられ、弘化二年に備前介を受領、大慶直胤、源清麿、左行秀などに比肩する実力と人気を誇った。


Koyama Munetsugu (shinshinto Bizen-den, Shirakawa / Edo) · 武蔵 · 1830-1870頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位17%
現在7点販売中
固山宗次は、享和三年に奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛、号を一専斎・精良斎といい、江戸時代の終わりに備前伝復古の第一人者となった。説明書は、その師は米沢の加藤綱英といわれると伝えつつ、その作風から勘案すれば「むしろ弟の加藤綱俊の影響力が大きい」[[c:1]]と慎重に付け加える。初め白河松平家に仕え、藩が移封されると勢州桑名藩の藩工となって江戸麻布永坂に住し、弘化二年に備前介を受領、文政後半から明治初年に至るまで作刀し、西山・固山・備前介藤原宗次など数様に銘を切った。その遺例は新々刀の工のうちでも甚だ多く、天保・嘉永・安政・慶応に亘って年紀が明らかであり、説明書はその作風が「作風は一貫して備前伝」[[c:2]]であったと評する。
本工の特徴の手は備前風の丁子・互の目丁子で、その作を何よりも分かつ見どころである。丁子に互の目・尖りごころの刃・小丁子・小互の目を交え、足長くよく入り、説明書はこの作域を鎌倉の備前兼光に通うものとする。一貫して変わらず、彼が範を求めた古作と分かつのは匂口であって、匂勝ちに締まって明るく冴え、小沸よくつき、刃中の明るい点こそ極めの繰り返し挙げるところである。ある天保の刀を、最も華やかな調子に仕上げたものとして、説明書は「常にも増して華やかな丁子主調の乱れ刃に仕上げており」[[c:3]]と評し、匂口ふっくらとして柔らか味があり、刃中が明るいとする。
地鉄もまた終始変わらぬところである。常の地鉄はよくつんだ小板目で、細かに綺麗に鍛えて無地風に見えるほどであり、地沸細かにつき、時に細かな地景が入る。説明書はこの二つを併せて本工の成功を要約し、「地鉄のよくつんだ綺麗な鍛えに、匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している」[[c:4]]とする。つまり緊まって綺麗な地鉄に匂勝ちの丁子乱れを焼き上げた、というのである。帽子は乱れ込んで小丸に返り、時に先尖って掃きかけ、彫物はある場合棒樋に添樋、時に梵字・護摩箸・倶利迦羅や神号を伴う。
本流のかたわら、彼は意識的な写しの工でもあり、説明書はその写し物を直に記す。ある大小を写し物の典型とし、刀は末備前ことに与三左衛門尉祐定を、脇指は応永備前の盛光・光を写したもので、短い刀身に映りを出すことに成功しているとする。別の作域として、天保年間の幅広・長寸・大鋒の作があり、身幅広く重ね厚く、地鉄は常々の緊まった肌とは相違して、板目に杢・流れ肌を交えて肌立ち、地沸・地景が一段と力強い感を与え、説明書はこの態が天保の作にまま見るところとする。より静かな直刃・直刃調の小調子も残り、本工の手のうち最も稀なものである。在銘・年紀の明らかな工であるから、宗次をめぐる鑑賞の問いは極めにあらず、その出来の質にあり、師についても説明書は同じ正直さで、その手がむしろ加藤綱俊に負うところが大きいと記す。
彼の幕末における位置を示すのは、備前伝復古の完成度と、その刀身の記録の豊かさである。多くが千住などで試された山田家の截断銘を帯び、息義次がその一部に彫物を施した。一刀は予州宇和島藩主伊達宗城侯の命により、外国船の折れた桅の環鉄を以て鍛えられ、説明書はその銘文を「幕末史の上からも貴重」[[c:5]]とする。明るく締まった丁子乱れと、その下の無地風に近い小板目は、彼が写した鎌倉の手本の深く柔らかい匂口と分かち、新々刀の備前伝の工の筆頭に彼を据える。
収集の観点では、宗次は稀品というよりは在銘の豊かな名工である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、重要文化財もない。記録の上の位置はもっぱら重要刀剣にあり、その作はよく代表され、幅広の丁子乱れの刀を本工の典型作・代表作とし、ことに匂深く匂口の明るいものを地刃ともに健全な優品とする。その作は美術館よりも来歴の明らかな手を経ており、記録される伝来は古河藩主、庄内藩家老松平親懐、宇和島の伊達宗城侯に及び、一口は鎌倉の荏柄神社に長く伝わった。多く作られて多く残り、いずれも取引の及ぶ級にあるため、出来のよい在銘・年紀の宗次は同格のいかなる名工よりも世に出ることが多く、記録の確かな、試し斬りまで備えた幕末備前伝の一刀を収集家が手にする、最も近づきやすい道の一つであり続けている。
宗次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在18点販売中
固山宗次は享和三年奥州白河に生まれ、俗名を宗兵衛(惣兵衛)といい、一専斎・精良斎と号した。兄に宗平・宗俊がいる。師は加藤綱英と伝えられるが、その作風から勘案すれば、むしろ加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初めは白河松平家の抱え工であったが、藩が勢州桑名へ移封の後は、江戸に住して桑名藩工として作刀し、その居住地は麻布永坂であった。弘化二年に備前介を受領している。作刀期間は文政の後半から明治初年の頃までに亘り、その遺例は非常に多い。十九世紀中頃、新々刀の世にあって備前伝を一貫して標榜し、藩の庇護のもと奥州出身の一工が江戸において備前復古の作風を遂げた点に、本系の出発がある。門人の泰龍斎宗寛は文政初年に大野平蔵の子として奥州白河城下に生まれ、宗次を鍛刀の師とした。後に生まれ故郷の阿武隈川を姓に用いて阿武隈川宗寛と銘し、嘉永初年頃から下総国古河藩の抱え工となり、安政四年八月頃から銘を楷書体から隷書体へ改め、明治十六年一月に歿している。 作風は一貫して備前伝で、よくつんだ綺麗な鍛えに匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功している。地鉄は小板目肌がよくつみ、ときに板目が総体に流れ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く映り立つものがある。刃文は丁子・互の目丁子を基調に、小丁子・尖り刃・角ばる刃・小互の目など多種の刃を交え、足長くよく入り、匂勝ちに小沸つき、細かに砂流しや金筋がかかり、匂口が明るく冴える。見分けの要は、後期作に見る丁子の肩を並べて整然と焼いた型押し風の刃取りと、前期の天保年間に多い焼に高低のある変化に富んだ華やかな乱れとの差にあり、後者には沸の強くつくもの、肌目の立つ強い鍛えがまま見られる。帽子は乱れ込んで小丸、あるいは先がくびれて地蔵風に丸く返るものがあり、同工独特の見どころとされる。截断銘を伴う作が多く、千住での試し斬りに係り、伊賀乗重・山田浅右衛門・後藤新太郎・後藤利義らの名が銘に見える。門系には宗寛のほか、截断銘に名の挙がる舞鶴友英、また「宗」字を用い茎の鑢目を切りとする点から弟子と推される金剛斎宗弘がいる。 鑑定の要は、新々刀期の身幅広く重ね厚く大鋒に結んだ豪壮な姿に、明るく冴えた備前伝の丁子乱れを焼く点にあり、前期は変化に富み、後期は小模様の刃が連れて型押し風となる作域の推移を押さえることにある。代表作には、楠正成所持と伝える国宝小龍景光を生ぶの状態に再現して写し、門弟宗寛が倶利伽羅と長梵字を彫った弘化四年の一口があり、宗次が末備前・応永備前に倣う備前物を多く遺したことを示す。また相州荏柄天満宮の社宝たる正宗庖丁を写し、金工東龍斎清寿が本歌同様の彫を加えた天保十一年の奉納脇指は、江戸の両巨匠の合作として稀有であり、宗弘の同手の写しも存する。截断銘に見える伊賀乗重は尾張藩付家老成瀬家の臣で、様斬の技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次・泰龍斎宗寛・舞鶴友英に習い、幕末の武家目利き四天王の一人に数えられた人物である。江戸にあって備前丁子を復興し、多くの遺例と確かな技倆を伝えた本系は、新々刀備前伝の一典型として位置づけられる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。