後醍醐天皇に献上するような元々の上品な公家太刀で健全かつ、ほかに類がほとんどない在銘の雲生です。小板目肌が細かく詰んだ精美な鍛えに地沸微塵に厚くつき、地映りが現れ刃文は直刃に小足・葉よく入り、匂口締まりごころに小沸がつくなど見事な出来映えを示した一振りです。 雲生は、後醍醐天皇の勅命により名剣を作った刀工であり、備前鵜飼派の祖とされています。彼は、後醍醐天皇の命により太刀を作り、その出来栄えが天に届くようにと祈ったところ、浮雲を模した夢を見ました。この夢が天からの告げであり、兄弟が同じ夢を見たため、名剣を得せしめ給えと天に祈ったとされています。 雲生は、後醍醐天皇の御番鍛冶として知られ、その作品は「雲生」銘が付けられています。彼の作品には、上杉謙信の遺愛刀である菊花紋を切った太刀や、重要文化財に指定されている宮城県の塩竃神社伝来の太刀などがあります。 雲生の作風は、京風の刀を制作したことに特徴があり、長船派や一文字派の備前刀とは異なります。彼の作品は、青了の心付きやはやり心といった特徴があり、備前物とは異なる鍛え方を示しています。 雲生の伝説や作品は、後醍醐天皇の影響を受けた刀工としての地位を示しており、彼の作品は日本の刀剣史において重要な位置を占めています。 0円 (税込)






Ukai / Unrui (Bizen) · 備前 · 1303-1306頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
鎌倉時代末期から南北朝期にかけて、備前国宇甘庄(後に鵜飼とも書く)に雲生・雲次・雲重らの刀工が居住した。説明書はその居住地から一派を宇甘派あるいは鵜飼派と呼び、皆名に「雲」の字を冠することから雲類とも呼称する。雲生はこの派の「事実上の祖」と明記される工である。年紀作は現存せず、銘鑑は初代を乾元・嘉元(一三〇二〜〇六)頃に置き、その活躍年代は正和・文保・建武の年紀を有する雲次の作によって定まる。伝えでは雲次とともに上京して山城鍛冶に鍛刀を学び、「後醍醐天皇の御番鍛冶」[[c:17]]を勤めたといい、本間は鎺下に「十六葉の菊花紋」を刻した極めて稀な作が宮中との関係を考えさせると述べる。一派の作風については「備前伝の中に山城風が混在」[[c:3]]し、さらに隣国備中青江派の影響も少なからず受けて、「備前物中異色の存在」[[c:4]]と評される。藤代の位列は上作である。
見どころの第一は反りである。細身で踏張りつき小鋒の太刀姿に反りは高く、均整のとれた輪反り(華表反り)を呈し、生ぶ茎在銘の太刀について説明書は「同時代の長船物が腰反りであるのに対して輪反りを呈している」[[c:5]]と記す。直刃を得意とし、細直刃ないし中直刃を基調に小互の目・小丁子・浅いのたれを交える。足は青江風に逆がかって逆足が入り、処々くさび状の陰の尖り刃を交える。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈み、金筋・砂流しが細かにかかる。間々元に僅かの焼落しがあり、「元の焼落しは雲生の個性」[[c:6]]と云えるとされる。帽子は丸く返って尖らず、青江気質を湛えた作にあっても「帽子が尖らず」丸みを呈するところに同工の特色が窺えるという。銘は目釘孔の上、棟寄りの二字銘で、「生」を「雲」に比して右側に寄せて切るのが手癖であり、本間は比較的大振りのこの手の銘を初代と鑑している。
鍛えは板目、処々小板目に約み、杢を交え、地沸つき、地景細かに入り、乱れ映りが立つ。就中「指の腹で押したような雲類独特の黒い地斑映り」[[c:8]]が同派の見どころであり、かな色はやや黒みがかる。本間は、鎌倉末期の備前物でありながら地刃に沸づくこと、また「まま極めて長船物以上に鮮明な映り」[[c:9]]のあるものが見られることを見処に挙げる。
説明書は「代表的作風は二様あって」[[c:10]]と明記する。一様は板目・杢が立ち、直刃に小乱れを交えて逆ごころあり、沸ついて砂流しのかかるもの、今一様は小板目がよく約み、地映りが殊に判然として直刃の匂口の締まるものである。第七回特別重要の生ぶ茎の太刀は前者に属し、「指で押した様な古調な映り」[[c:11]]が看取される。この二様の外に、より強い作域がある。「雲生の作風は焼きの低いやや働きの寂しいものが多く」[[c:12]]、他には焼幅がやや広く足・葉の目立つ沸の強くついた雲次にも通じるものが知られ、第二十一回特別重要の折返銘の刀は正にその力強い作域を示す。稀に大和ごころを加味して沸のやや強いものもある。工人については少なくとも二代の存在が認められ、二代は文保あるいは建武頃に置かれ、銘鑑は初代雲次をその子(一説に弟)と伝える。長銘は稀で、「備前国雲生」と銘した短刀は「他に類例が殆ど無く」[[c:14]]、資料性の高い貴重な銘とされる。
備前の中での座標は説明書自身の言葉に尽きる。一派の出来は反り格好を始めとして備前物の中で「最も京物に近い」といわれ、個々の作は来物や隣国青江に紛れることがある。直刃は京物の格に達しつつ、足は青江風に逆がかる。しかも地には鮮明な乱れ映りが立って生国備前の趣が濃く、青江気質を帯びた作でも帽子は丸く返る。下流については、判者は焼きで一派を分かつ。雲生は焼きが低く働きがやや寂しく、雲次は焼幅広く沸強く足・葉が目立つ。雲生の力強い作は雲次に近づくと読まれ、一派は雲重らに続く。
指定を受けた作は七十四口を数える。うち六口は重要文化財として伝存し、戦前の重要美術品九口には、「上杉景勝御手選び三十五腰」[[c:16]]の一振りに数えられて上杉家に伝来した菊紋の太刀、岩崎小弥太旧蔵で現在静嘉堂文庫美術館の長寸生ぶ茎の太刀、徳川家達から佐野美術館に渡った細身の太刀が含まれる。特別重要刀剣と重要刀剣は合わせて五十七口に及び、第二十一回特別重要の折返銘の刀、第七回特別重要の生ぶ茎の太刀がその代表である。鎌倉末期の備前工としては在銘が多く、ここでは在銘三十八口に対して無銘三十四口、ほとんどが二字銘である。伝来の録された作は十口あり、第十二回特別重要の太刀は長州毛利家の庶流右田毛利家に伝来し、浅野家伝来の一刀には延宝四年本阿弥光常代金子拾枚の折紙が附帯し、ほかに大河内家・皇室を経たものがある。重要文化財と美術館蔵の諸作が市に出ることはない。蒐集家が現実に相見えるのは重要刀剣の磨上無銘の刀か在銘の太刀であり、上杉景勝が選んだような生ぶ在銘の太刀が市に現れることは稀であって、現れれば斯界の出来事となる。
雲生の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備前
現在8点販売中
備前国宇甘庄、後に鵜飼とも書かれた地に、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、名に皆「雲」の字を冠する刀工の一群が住した。その居住地から宇甘派あるいは鵜飼派と呼ばれ、銘字の特徴から雲類とも称される。一派の事実上の祖は雲生で、これに雲次、雲重が続く。銘鑑は雲次を雲生の子あるいは弟と伝え、雲重を二代雲生の子とする。雲生には年紀作が現存せず、一派の年代の拠り所はもっぱら雲次の正和・文保・建武の年紀作にあり、雲重に至って文和・貞治・応安の年紀が加わる。雲生・雲次の代に京に上って山城鍛冶に学び、後醍醐天皇の御番鍛冶を勤めたと伝え、雲次には茎に十六葉の菊花紋を刻した太刀があって、宮中との関係を考えさせる稀有な作とされる。その作風は同時代の長船本流と趣を異にし、備前伝の中に山城風が混在し、隣国備中青江派の影響も少なからず受けて、備前物中異色の存在と評される。 作風はいずれも直刃を基調とする点で一致し、これが丁子を焼く長船本流との分かれ目となる。太刀姿は身幅尋常で反りが輪反りごころとなり、同時代の長船物が腰反りを呈するのに対し均整のとれた反り格好を示して京風を帯び、生ぶのものには踏張りが残る。刃文は細直刃ないし中直刃に小互の目・小丁子・小乱れを交え、足・葉がよく入って青江風に逆がかり、処々に角張る刃や陰の尖り刃を見せる。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈みごころとなって金筋・砂流し・ほつれがかかる。帽子は丸く返って尖らず、これを雲類の見どころとする。鍛えは板目に杢を交えてやや肌立ち、約んだものは小板目となり、地沸つき地景細かに入って鉄色はやや黒みがかる。地には指の腹で押したような黒い地斑の映りが立ち、これを同派独特の見どころとする。銘は棟寄りに切り、「生」「次」等の銘字に逆鏨を用いるのが一派共通の手癖である。もっとも三工の間には差異もあり、雲生は焼きが低く働きがやや寂しく、雲次は焼幅広く沸強く足・葉が目立ち、雲重は大和の風情を加味してほつれ・喰違刃・打のけを交え、最も傾いた作では鍛えが殆ど柾となって帽子が焼詰めとなる。 鑑定の勘所は、まず一派が備前物の中で最も京物に近いという座標にある。直刃は来物の格に達して紛れることがあり、足は青江風に逆がかり、年紀のある静かな直刃の作はしばしば一見青江に紛れる。しかも地には鮮明な乱れ映りが立って生国備前の趣が濃く、青江気質を帯びた作でも帽子は丸く返るところに同派の証が残る。派内の見分けは焼きをもって分かたれ、雲生の力強い作は雲次に近づき、雲重は相伝の影響を受けてこれを南北朝へと押し進めた。一派は薙刀の製作にも巧みで、雲次・雲重と極められた無銘の薙刀直しが少なからず存し、直しに際して鋒の棟を削いだため帽子が自然焼詰めとなり、薙刀樋に添樋の彫が残ることが多い。主要工としては、一派の祖にして焼き低く京物に近い作風を示す雲生、正和以下の年紀作を遺して一派の年代を支え沸の働きに長じた雲次、年紀作をもって南北朝中期に確と据わり大和を加味した雲重の三工が柱をなし、ほかに雲重らに連なる工が一派を支える。在銘作は雲類の中では比較的多いものの、その大半は秘蔵されて市に現れることは稀であり、無銘の磨上や薙刀直しに対して生ぶ茎在銘の太刀は一段と稀有である。伝来の録された作は旧家や機関に伝わり、上杉景勝御手選びに数えられた菊紋の太刀、武田信虎の所持銘を切付けた雲次の太刀など、銘文の資料性において貴ばれるものが含まれる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品の意思を商品到着日の翌日までに必ずメールもしくはファックスでご連絡ください。返品送料及び保険金額、返金振込手数料はお客様のご負担とさせていただきます。
後醍醐天皇に献上するような元々の上品な公家太刀で健全かつ、ほかに類がほとんどない在銘の雲生です。小板目肌が細かく詰んだ精美な鍛えに地沸微塵に厚くつき、地映りが現れ刃文は直刃に小足・葉よく入り、匂口締まりごころに小沸がつくなど見事な出来映えを示した一振りです。 雲生は、後醍醐天皇の勅命により名剣を作った刀工であり、備前鵜飼派の祖とされています。彼は、後醍醐天皇の命により太刀を作り、その出来栄えが天に届くようにと祈ったところ、浮雲を模した夢を見ました。この夢が天からの告げであり、兄弟が同じ夢を見たため、名剣を得せしめ給えと天に祈ったとされています。 雲生は、後醍醐天皇の御番鍛冶として知られ、その作品は「雲生」銘が付けられています。彼の作品には、上杉謙信の遺愛刀である菊花紋を切った太刀や、重要文化財に指定されている宮城県の塩竃神社伝来の太刀などがあります。 雲生の作風は、京風の刀を制作したことに特徴があり、長船派や一文字派の備前刀とは異なります。彼の作品は、青了の心付きやはやり心といった特徴があり、備前物とは異なる鍛え方を示しています。 雲生の伝説や作品は、後醍醐天皇の影響を受けた刀工としての地位を示しており、彼の作品は日本の刀剣史において重要な位置を占めています。 0円 (税込)






Ukai / Unrui (Bizen) · 備前 · 1303-1306頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
鎌倉時代末期から南北朝期にかけて、備前国宇甘庄(後に鵜飼とも書く)に雲生・雲次・雲重らの刀工が居住した。説明書はその居住地から一派を宇甘派あるいは鵜飼派と呼び、皆名に「雲」の字を冠することから雲類とも呼称する。雲生はこの派の「事実上の祖」と明記される工である。年紀作は現存せず、銘鑑は初代を乾元・嘉元(一三〇二〜〇六)頃に置き、その活躍年代は正和・文保・建武の年紀を有する雲次の作によって定まる。伝えでは雲次とともに上京して山城鍛冶に鍛刀を学び、「後醍醐天皇の御番鍛冶」[[c:17]]を勤めたといい、本間は鎺下に「十六葉の菊花紋」を刻した極めて稀な作が宮中との関係を考えさせると述べる。一派の作風については「備前伝の中に山城風が混在」[[c:3]]し、さらに隣国備中青江派の影響も少なからず受けて、「備前物中異色の存在」[[c:4]]と評される。藤代の位列は上作である。
見どころの第一は反りである。細身で踏張りつき小鋒の太刀姿に反りは高く、均整のとれた輪反り(華表反り)を呈し、生ぶ茎在銘の太刀について説明書は「同時代の長船物が腰反りであるのに対して輪反りを呈している」[[c:5]]と記す。直刃を得意とし、細直刃ないし中直刃を基調に小互の目・小丁子・浅いのたれを交える。足は青江風に逆がかって逆足が入り、処々くさび状の陰の尖り刃を交える。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈み、金筋・砂流しが細かにかかる。間々元に僅かの焼落しがあり、「元の焼落しは雲生の個性」[[c:6]]と云えるとされる。帽子は丸く返って尖らず、青江気質を湛えた作にあっても「帽子が尖らず」丸みを呈するところに同工の特色が窺えるという。銘は目釘孔の上、棟寄りの二字銘で、「生」を「雲」に比して右側に寄せて切るのが手癖であり、本間は比較的大振りのこの手の銘を初代と鑑している。
鍛えは板目、処々小板目に約み、杢を交え、地沸つき、地景細かに入り、乱れ映りが立つ。就中「指の腹で押したような雲類独特の黒い地斑映り」[[c:8]]が同派の見どころであり、かな色はやや黒みがかる。本間は、鎌倉末期の備前物でありながら地刃に沸づくこと、また「まま極めて長船物以上に鮮明な映り」[[c:9]]のあるものが見られることを見処に挙げる。
説明書は「代表的作風は二様あって」[[c:10]]と明記する。一様は板目・杢が立ち、直刃に小乱れを交えて逆ごころあり、沸ついて砂流しのかかるもの、今一様は小板目がよく約み、地映りが殊に判然として直刃の匂口の締まるものである。第七回特別重要の生ぶ茎の太刀は前者に属し、「指で押した様な古調な映り」[[c:11]]が看取される。この二様の外に、より強い作域がある。「雲生の作風は焼きの低いやや働きの寂しいものが多く」[[c:12]]、他には焼幅がやや広く足・葉の目立つ沸の強くついた雲次にも通じるものが知られ、第二十一回特別重要の折返銘の刀は正にその力強い作域を示す。稀に大和ごころを加味して沸のやや強いものもある。工人については少なくとも二代の存在が認められ、二代は文保あるいは建武頃に置かれ、銘鑑は初代雲次をその子(一説に弟)と伝える。長銘は稀で、「備前国雲生」と銘した短刀は「他に類例が殆ど無く」[[c:14]]、資料性の高い貴重な銘とされる。
備前の中での座標は説明書自身の言葉に尽きる。一派の出来は反り格好を始めとして備前物の中で「最も京物に近い」といわれ、個々の作は来物や隣国青江に紛れることがある。直刃は京物の格に達しつつ、足は青江風に逆がかる。しかも地には鮮明な乱れ映りが立って生国備前の趣が濃く、青江気質を帯びた作でも帽子は丸く返る。下流については、判者は焼きで一派を分かつ。雲生は焼きが低く働きがやや寂しく、雲次は焼幅広く沸強く足・葉が目立つ。雲生の力強い作は雲次に近づくと読まれ、一派は雲重らに続く。
指定を受けた作は七十四口を数える。うち六口は重要文化財として伝存し、戦前の重要美術品九口には、「上杉景勝御手選び三十五腰」[[c:16]]の一振りに数えられて上杉家に伝来した菊紋の太刀、岩崎小弥太旧蔵で現在静嘉堂文庫美術館の長寸生ぶ茎の太刀、徳川家達から佐野美術館に渡った細身の太刀が含まれる。特別重要刀剣と重要刀剣は合わせて五十七口に及び、第二十一回特別重要の折返銘の刀、第七回特別重要の生ぶ茎の太刀がその代表である。鎌倉末期の備前工としては在銘が多く、ここでは在銘三十八口に対して無銘三十四口、ほとんどが二字銘である。伝来の録された作は十口あり、第十二回特別重要の太刀は長州毛利家の庶流右田毛利家に伝来し、浅野家伝来の一刀には延宝四年本阿弥光常代金子拾枚の折紙が附帯し、ほかに大河内家・皇室を経たものがある。重要文化財と美術館蔵の諸作が市に出ることはない。蒐集家が現実に相見えるのは重要刀剣の磨上無銘の刀か在銘の太刀であり、上杉景勝が選んだような生ぶ在銘の太刀が市に現れることは稀であって、現れれば斯界の出来事となる。
雲生の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備前
現在8点販売中
備前国宇甘庄、後に鵜飼とも書かれた地に、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、名に皆「雲」の字を冠する刀工の一群が住した。その居住地から宇甘派あるいは鵜飼派と呼ばれ、銘字の特徴から雲類とも称される。一派の事実上の祖は雲生で、これに雲次、雲重が続く。銘鑑は雲次を雲生の子あるいは弟と伝え、雲重を二代雲生の子とする。雲生には年紀作が現存せず、一派の年代の拠り所はもっぱら雲次の正和・文保・建武の年紀作にあり、雲重に至って文和・貞治・応安の年紀が加わる。雲生・雲次の代に京に上って山城鍛冶に学び、後醍醐天皇の御番鍛冶を勤めたと伝え、雲次には茎に十六葉の菊花紋を刻した太刀があって、宮中との関係を考えさせる稀有な作とされる。その作風は同時代の長船本流と趣を異にし、備前伝の中に山城風が混在し、隣国備中青江派の影響も少なからず受けて、備前物中異色の存在と評される。 作風はいずれも直刃を基調とする点で一致し、これが丁子を焼く長船本流との分かれ目となる。太刀姿は身幅尋常で反りが輪反りごころとなり、同時代の長船物が腰反りを呈するのに対し均整のとれた反り格好を示して京風を帯び、生ぶのものには踏張りが残る。刃文は細直刃ないし中直刃に小互の目・小丁子・小乱れを交え、足・葉がよく入って青江風に逆がかり、処々に角張る刃や陰の尖り刃を見せる。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈みごころとなって金筋・砂流し・ほつれがかかる。帽子は丸く返って尖らず、これを雲類の見どころとする。鍛えは板目に杢を交えてやや肌立ち、約んだものは小板目となり、地沸つき地景細かに入って鉄色はやや黒みがかる。地には指の腹で押したような黒い地斑の映りが立ち、これを同派独特の見どころとする。銘は棟寄りに切り、「生」「次」等の銘字に逆鏨を用いるのが一派共通の手癖である。もっとも三工の間には差異もあり、雲生は焼きが低く働きがやや寂しく、雲次は焼幅広く沸強く足・葉が目立ち、雲重は大和の風情を加味してほつれ・喰違刃・打のけを交え、最も傾いた作では鍛えが殆ど柾となって帽子が焼詰めとなる。 鑑定の勘所は、まず一派が備前物の中で最も京物に近いという座標にある。直刃は来物の格に達して紛れることがあり、足は青江風に逆がかり、年紀のある静かな直刃の作はしばしば一見青江に紛れる。しかも地には鮮明な乱れ映りが立って生国備前の趣が濃く、青江気質を帯びた作でも帽子は丸く返るところに同派の証が残る。派内の見分けは焼きをもって分かたれ、雲生の力強い作は雲次に近づき、雲重は相伝の影響を受けてこれを南北朝へと押し進めた。一派は薙刀の製作にも巧みで、雲次・雲重と極められた無銘の薙刀直しが少なからず存し、直しに際して鋒の棟を削いだため帽子が自然焼詰めとなり、薙刀樋に添樋の彫が残ることが多い。主要工としては、一派の祖にして焼き低く京物に近い作風を示す雲生、正和以下の年紀作を遺して一派の年代を支え沸の働きに長じた雲次、年紀作をもって南北朝中期に確と据わり大和を加味した雲重の三工が柱をなし、ほかに雲重らに連なる工が一派を支える。在銘作は雲類の中では比較的多いものの、その大半は秘蔵されて市に現れることは稀であり、無銘の磨上や薙刀直しに対して生ぶ茎在銘の太刀は一段と稀有である。伝来の録された作は旧家や機関に伝わり、上杉景勝御手選びに数えられた菊紋の太刀、武田信虎の所持銘を切付けた雲次の太刀など、銘文の資料性において貴ばれるものが含まれる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品の意思を商品到着日の翌日までに必ずメールもしくはファックスでご連絡ください。返品送料及び保険金額、返金振込手数料はお客様のご負担とさせていただきます。