西垣勘四郎 松透図鍔 LS023 スキップ・ホルブルック旧蔵(初代勘四郎極め) 西垣勘四郎の真骨頂とも言える、鉄地松透図鍔です。 寸法は8.1cm × 8.03cm、厚さ5.21mm。 大振りな造り込みに、精良な黒々とした鉄色、そして繊細な毛彫の装飾は、初代勘四郎(慶長18年生〜元禄6年没)の作風を強く示唆しています。初代は細川三斎の庇護のもと、平田彦三に師事しました。 本作では「三階松」が実に見事に描写されており、勘四郎の作品の中でも極めて稀少かつ、愛好家垂涎の一枚と言えます。 参照:ヘインズ著『日本塗装金工大辞典』H 02673.0 (解説:マイケル・コックス) 備考:1990年代の販売当時の記録を記したスキップ・ホルブルック氏の書付が付属します。 寸法:8.1cm × 8.03cm × 5.21mm 銘:無銘(西垣勘四郎) 出典:『日本塗装金工大辞典』2673.0項








勘四郎
新刀
肥後 · 肥後
現在8点販売中
西垣勘四郎は、慶長十八年(1613年)に豊前国中津(現在の大分県中津市)で神官の子として生まれた。平田彦三の門人となり相伝免許を得て独立開業し、細川家の抱え工となって二十人扶持を支給されている。林又七とは同年配であり、素材・作風が似通う点もあることから、君子の風格をもつと言われる又七に対して、勘四郎は高士の風雅をもつと対比されている。寛永九年(1632年)十二月、主家の移封に随従して、肥後国八代に転住し、さらに熊本の職人町に移っている。林・平田・志水家と共に、肥後金工群の主流をなして西垣派を起した。元禄六年(1693年)六月に八十一歳で同地で歿している。西垣家は三代まで勘四郎を名乗り、のち代々続いている。
初代西垣勘四郎の作域は、地透の地鉄は軟らか味があって、平地の処理にも多少変化のあるものが多く、また形には撓みがあり、少し歪んで見えるものが多い。大きな特徴は下張れのした障泥形が多く、鉄以外には師の平田彦三と同じ素銅地、真鍮地を使用した作も存在する。得意とした意匠は、投桐や菊であり、投桐は草体の花桐文を図案化して透彫にしたもので、その姿を形容して踊桐や二枚桐とも呼ばれる。林派の作にも多く見られるが、西垣の作は彫口が林に比してやや優しく、葉脈の毛彫の線が細く賑やかとなり、且つ耳の内側が菊花状となる特色を有する。鉄地をよく鍛えて、力強い味わいがあり、錆色麗わしいものが多い。真鍮地で障泥形に造り込み、切羽台の部分を厚く、耳の方に行くにしたがって平肉を落とし、環耳風にした垢抜けた形も見られる。勘四郎独特の泥波を鋤出彫にし、その波間に漆を上手に使用して躍動感溢れた作品に仕上げている。
西垣勘四郎の作は、細川三斎忠興の薫陶を受け、茶の美に通じる風韻を鐔の上に表現したと評される。特に投桐図は、肉置に工夫があり、錆色もいわゆる羊羹色を呈して美しいとされる。同作中出色の出来であり、円熟の技を存分に発揮していると評価される。総じて、温雅な趣を湛えた作が多く、雅趣に富んでいる。
勘四郎の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
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現在36点販売中
西垣派は、林・平田・志水と並ぶ肥後金工四大流派の一つである。祖の初代西垣勘四郎(吉弘)は慶長十八年(一六一三)、豊前国中津に神官の子として生まれ、平田彦三の門人となり相伝免許を得て独立開業した。細川家の抱え工として細川三斎忠興より二十人扶持を支給され、寛永九年十二月に主家の移封に随従して肥後国八代に転住、のち熊本の職人町に居を構えている。林又七とは同年配であり、素材・作風が似通う点もあることから、「君子の風格をもつ」と言われる又七に対し、勘四郎は「高士の風雅をもつ」と対比されてきた。利休七哲の一人として茶道にも造詣の深かった三斎の薫陶を受け、茶の美に通じる風韻を鐔の上に表現したのが西垣派の本質である。勘四郎は元禄六年(一六九三)六月、八十一歳で同地に没した。 初代勘四郎の作域は鉄地の地透鐔を中核とし、投桐(踊桐・二枚桐とも称される、草体の花桐文を図案化した透彫)を最も得意とした。菊花形・老松・枝桐・海鼠など肥後の掟物にも多彩な趣向を凝らしている。説示が繰り返し指摘する西垣の鑑定要点は、林に比してやや優しい彫口、葉脈の毛彫の線が細く賑やかなこと、耳の内側が菊花状となる特色、そして形に撓みをもたせた不整形で下張れの障泥形が多い点である。肉置きに工夫があり、陰陽透の構図——すなわち外形と地透の内側を異なる花形に取り合わせる手法——は勘四郎が殊に得意としたものと評される。鉄地は柔らかみのある地がねで、錆色はいわゆる「羊羹色」を呈し、その潤いと質感は肥後特有のものとされる。鉄以外にも師・平田彦三と同じく素銅地や真鍮地を使用し、漆仕立の作も存在する。二代勘四郎(永久、吉当とも称す。寛永十六年生、享保二年七十九歳没)は初代の長子で、弟に勘平がいる。後藤家七代顕乗に学んだとされ、象嵌技術に長じ、真鍮や素銅地に巧みな象嵌を駆使した作品に本領を見る。初代が全て無銘であるのに対し、二代には「西垣勘四郎永久」銘や「西垣永久 七十歳作之」の在銘作が遺る。その作域は鐔にとどまらず、縁頭・小柄・目貫にも及んでいる。 西垣派の鐔は、細川流茶道の「わびの美」を鐔上に結晶させたものとして高く評される。初代勘四郎の鉄透鐔は、故意の歪みと不均衡の妙、柔らかな地がねの鉄味、空間の余情によって、静かに豊かな雅趣を醸し出す。その代表的名品として、二代永久の重要美術品「田毎の月図鐔」は赤銅・四分一・銅・朱銅など多くの色金を駆使し、畦に区切られた田面ごとに映る月影を細い金象嵌で変化させた傑作であり、認定時は細川護立の所蔵、現在は永青文庫に伝わる。細川家の家紋・九曜紋に唐草を配し同家の永遠の繁栄を祈願した意匠や、『延喜式』の祥瑞に取材した「白兎は月の精でその寿は千歳」の四兎図鐔など、西垣派の作品は藩主家の美意識と深く結びついている。華美と濃厚を避け、地味の中に垢ぬけした雅味を求めるという肥後拵の精神を、初代の風雅と二代の巧緻とが相補い、脈々と伝えた一派である。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
Three day, no penalty, inspection on every item. Returns must be in the same condition as shipped. Actual costs will be charged on returned items. No restocking fee. If you did not like the item is a good enough reason for return.
西垣勘四郎 松透図鍔 LS023 スキップ・ホルブルック旧蔵(初代勘四郎極め) 西垣勘四郎の真骨頂とも言える、鉄地松透図鍔です。 寸法は8.1cm × 8.03cm、厚さ5.21mm。 大振りな造り込みに、精良な黒々とした鉄色、そして繊細な毛彫の装飾は、初代勘四郎(慶長18年生〜元禄6年没)の作風を強く示唆しています。初代は細川三斎の庇護のもと、平田彦三に師事しました。 本作では「三階松」が実に見事に描写されており、勘四郎の作品の中でも極めて稀少かつ、愛好家垂涎の一枚と言えます。 参照:ヘインズ著『日本塗装金工大辞典』H 02673.0 (解説:マイケル・コックス) 備考:1990年代の販売当時の記録を記したスキップ・ホルブルック氏の書付が付属します。 寸法:8.1cm × 8.03cm × 5.21mm 銘:無銘(西垣勘四郎) 出典:『日本塗装金工大辞典』2673.0項








勘四郎
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西垣勘四郎は、慶長十八年(1613年)に豊前国中津(現在の大分県中津市)で神官の子として生まれた。平田彦三の門人となり相伝免許を得て独立開業し、細川家の抱え工となって二十人扶持を支給されている。林又七とは同年配であり、素材・作風が似通う点もあることから、君子の風格をもつと言われる又七に対して、勘四郎は高士の風雅をもつと対比されている。寛永九年(1632年)十二月、主家の移封に随従して、肥後国八代に転住し、さらに熊本の職人町に移っている。林・平田・志水家と共に、肥後金工群の主流をなして西垣派を起した。元禄六年(1693年)六月に八十一歳で同地で歿している。西垣家は三代まで勘四郎を名乗り、のち代々続いている。
初代西垣勘四郎の作域は、地透の地鉄は軟らか味があって、平地の処理にも多少変化のあるものが多く、また形には撓みがあり、少し歪んで見えるものが多い。大きな特徴は下張れのした障泥形が多く、鉄以外には師の平田彦三と同じ素銅地、真鍮地を使用した作も存在する。得意とした意匠は、投桐や菊であり、投桐は草体の花桐文を図案化して透彫にしたもので、その姿を形容して踊桐や二枚桐とも呼ばれる。林派の作にも多く見られるが、西垣の作は彫口が林に比してやや優しく、葉脈の毛彫の線が細く賑やかとなり、且つ耳の内側が菊花状となる特色を有する。鉄地をよく鍛えて、力強い味わいがあり、錆色麗わしいものが多い。真鍮地で障泥形に造り込み、切羽台の部分を厚く、耳の方に行くにしたがって平肉を落とし、環耳風にした垢抜けた形も見られる。勘四郎独特の泥波を鋤出彫にし、その波間に漆を上手に使用して躍動感溢れた作品に仕上げている。
西垣勘四郎の作は、細川三斎忠興の薫陶を受け、茶の美に通じる風韻を鐔の上に表現したと評される。特に投桐図は、肉置に工夫があり、錆色もいわゆる羊羹色を呈して美しいとされる。同作中出色の出来であり、円熟の技を存分に発揮していると評価される。総じて、温雅な趣を湛えた作が多く、雅趣に富んでいる。
勘四郎の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
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西垣派は、林・平田・志水と並ぶ肥後金工四大流派の一つである。祖の初代西垣勘四郎(吉弘)は慶長十八年(一六一三)、豊前国中津に神官の子として生まれ、平田彦三の門人となり相伝免許を得て独立開業した。細川家の抱え工として細川三斎忠興より二十人扶持を支給され、寛永九年十二月に主家の移封に随従して肥後国八代に転住、のち熊本の職人町に居を構えている。林又七とは同年配であり、素材・作風が似通う点もあることから、「君子の風格をもつ」と言われる又七に対し、勘四郎は「高士の風雅をもつ」と対比されてきた。利休七哲の一人として茶道にも造詣の深かった三斎の薫陶を受け、茶の美に通じる風韻を鐔の上に表現したのが西垣派の本質である。勘四郎は元禄六年(一六九三)六月、八十一歳で同地に没した。 初代勘四郎の作域は鉄地の地透鐔を中核とし、投桐(踊桐・二枚桐とも称される、草体の花桐文を図案化した透彫)を最も得意とした。菊花形・老松・枝桐・海鼠など肥後の掟物にも多彩な趣向を凝らしている。説示が繰り返し指摘する西垣の鑑定要点は、林に比してやや優しい彫口、葉脈の毛彫の線が細く賑やかなこと、耳の内側が菊花状となる特色、そして形に撓みをもたせた不整形で下張れの障泥形が多い点である。肉置きに工夫があり、陰陽透の構図——すなわち外形と地透の内側を異なる花形に取り合わせる手法——は勘四郎が殊に得意としたものと評される。鉄地は柔らかみのある地がねで、錆色はいわゆる「羊羹色」を呈し、その潤いと質感は肥後特有のものとされる。鉄以外にも師・平田彦三と同じく素銅地や真鍮地を使用し、漆仕立の作も存在する。二代勘四郎(永久、吉当とも称す。寛永十六年生、享保二年七十九歳没)は初代の長子で、弟に勘平がいる。後藤家七代顕乗に学んだとされ、象嵌技術に長じ、真鍮や素銅地に巧みな象嵌を駆使した作品に本領を見る。初代が全て無銘であるのに対し、二代には「西垣勘四郎永久」銘や「西垣永久 七十歳作之」の在銘作が遺る。その作域は鐔にとどまらず、縁頭・小柄・目貫にも及んでいる。 西垣派の鐔は、細川流茶道の「わびの美」を鐔上に結晶させたものとして高く評される。初代勘四郎の鉄透鐔は、故意の歪みと不均衡の妙、柔らかな地がねの鉄味、空間の余情によって、静かに豊かな雅趣を醸し出す。その代表的名品として、二代永久の重要美術品「田毎の月図鐔」は赤銅・四分一・銅・朱銅など多くの色金を駆使し、畦に区切られた田面ごとに映る月影を細い金象嵌で変化させた傑作であり、認定時は細川護立の所蔵、現在は永青文庫に伝わる。細川家の家紋・九曜紋に唐草を配し同家の永遠の繁栄を祈願した意匠や、『延喜式』の祥瑞に取材した「白兎は月の精でその寿は千歳」の四兎図鐔など、西垣派の作品は藩主家の美意識と深く結びついている。華美と濃厚を避け、地味の中に垢ぬけした雅味を求めるという肥後拵の精神を、初代の風雅と二代の巧緻とが相補い、脈々と伝えた一派である。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
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