江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
脇差:伯耆守正幸(鑑定) SS0480 値下げ済 売約済 大磨上無銘ながら、大鋒に棒樋と二筋樋を掻き通した、身幅広く豪壮な鎬造りの脇差です。 刃長:1尺4寸9分(45.150 cm) 元幅:3.478 cm 先幅:2.899 cm 重ね:6.79 mm 【体配】 互の目尖り、頭にわずかに砂流しかかり、刃沸つく。 【地鉄】 板目肌詰み、小沸よくつく。鮮明な棒映りあり。 【帽子】 焼幅を保ち、そのまま先へ抜ける。 研ぎの状態は良好で、上質な金着一重白銀を添え、白鞘に収められています。 美術日本刀保存審査会による昭和55年1月19日付の鑑定書が付属し、初代伯耆守平朝臣正幸と極められています。 正幸は薩摩の工で、三代正良ののち、伯耆守を受領し正幸と改めました。藤代義雄著『日本刀工辞典 新刀篇』では上々作に列せられ、得能一男著『刀工大観』では鑑定評価額550万円とされています。また『新々刀大観』にも数ページにわたり所載されています。1998年時点で22振が重要刀剣に指定されるなど、薩摩刀の最高峰の一人です。 なお、本鑑定書には「重要脇差」との添え書きがありますが、これは本刀の出来映えを称えたものであり、日本美術刀剣保存協会(日美刀保)の重要刀剣指定とは異なりますのでご留意ください。 鑑定書によれば、本作は元々2尺5寸(約75.76 cm)の太刀であったものを大磨上としたものと記されています。 (画像:通常の脇差とのサイズ比較) (画像:美術日本刀保存審査会 鑑定書) (参照:『新々刀大観』『日本刀工辞典 新刀篇』『刀工大観』1725頁)





















Ijichi (Satsuma), shinshinto · 薩摩 · 1772-1817頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
現在5点販売中
伯耆守正幸は二代伊地知正良の子で、薩摩の藩工伊地知家の工、享保十八年に生まれた。三代目を継いで初めは正良と銘し、宝暦の頃よりの作が記録に残る。寛政元年、年長の同郷の工奥元平が大和守を受けると同時に伯耆守を受領し、正良の名を嫡男に譲って、自らは正幸と改めた。作歴は長く、年紀と行年を切る作が八十五歳まで残り、文政元・二年、八十六・七歳で没している。説明書は本工を、今に至るまで変らぬ一つの併称で位置づける。奥元平とともに薩摩新々刀の双璧と称えられ、説明書自身の言葉で、奥元平とともに「薩摩新々刀中の双璧」[[c:1]]であるとする。父祖に優る技量を示し、出藍の誉が高かったと同じ説明書は記す。
本領は、説明書が本工得意の相州伝と称する身幅広く長寸で頑丈な造込みの刀であり、本工自らこれを相州伝と呼び、説明書は「自から相州伝という」[[c:2]]と記す。体配は身幅広く重ね厚く鋒延び、一般に頑丈な造込みである。その上に浅いのたれ調の互の目乱れを焼き、尖りごころの刃を交える。尖りを帯びた互の目こそ、極めが本工の得意として最も多く挙げる見どころであり、匂深く、沸厚くやや荒めにぱらぱらとつき、荒沸を交える。刃を貫いて頻りな砂流しと長い金筋がかかり、これが薩摩で芋蔓と称される沸の流れ筋である。尖り刃と流れる蔓とが本工を認める背骨であり、丁子にあらず荒い沸に読む相州伝であって、説明書はその手本を直に名指し、本工の作風を「相州伝、就中、志津に倣った作柄を得意としている」[[c:3]]とする。
下地の地鉄は終始変らぬところである。よく練れた板目、多く杢・流れ肌を交えてつみ、地沸厚く地景風の黒い変りがね入り、最上の作では明るく冴える。その上で帽子は乱れ込みあるいは直ぐに小丸・大丸に返り、先を掃きかけて時に沸崩れごころとなる。説明書が茎そのものに鑑定点として挙げる一つの見どころがある。茎は殆んど生ぶで、剣形あるいは入山形の先へ細り、鑢目勝手上り、太鏨の大振りの長銘を切り行年を添えるものが多い。そして大半の刀に棒樋を彫るのは、身幅広く重ね厚い関係からと説明書は記し、身幅が比較的尋常な作にのみ樋を掻かない。
記録は銘と時期で分かれる。前期、受領と改名の前に正良と銘した作は、覇気ある相州伝の手が現れる前の、より静かな面として読まれる。小のたれに互の目を交え、足・ほつれ入り、厚く沸つき処々荒沸つき砂流しかかり、帽子は大丸ごころとなって先沸崩れる。その前期の刃の下地はすでに本領に持ち込む薩摩の鉄であり、大板目の目立つ広い板目に流れごころを交えるから、正良の面は別の伝ではなく同じ手を静かに保ったものである。年紀作の中には日付を超える銘もある。寛政十二年の一口は、庚申の日が一年に七度当たる年に鍛えた刀は武運長久を得るという庚申信仰を切り、説明書が珍しいとする銘であり、別の一口は茎に「南無八幡大菩薩」の神号を彫る。
同国の中で本工を位置づけるのは、まさに極めの言う併称と説明書の立ち返る手である。まず年長の同郷の工元平に対して読まれ、両者は薩摩新々刀の双璧として併べられる。一方は奥家、一方は伊地知家であり、同年に受領した。他と分かつのは借りものの比較ではなく本工自身の描かれた見どころである。身幅広く頑丈な姿、匂深い互の目乱れに交わる尖り刃、掃きかけの帽子に通じる荒沸、そして流れる芋蔓である。説明書はその品位をこの蔓に照らして測り、島津家伝来の一口を、かえって「芋蔓風の金筋・沸筋」[[c:4]]が表れぬがゆえに品位が高いと称える。本工は伊地知家の筆頭に立ち、この系の薩摩新々刀を読む手である。
収集の観点では、本工は薩摩末期の屈指の名であり、藤代の極めは上作である。国宝はなく、重要文化財もない。現代の指定は重要刀剣の級を通じ、二十八口がこの級にあり、寛政の頃から歿年近くに及ぶ作歴にわたって、いずれも生ぶ・在銘である。その中の伝来は格高く、彼の藩に固有である。一口は薩摩藩主島津家に伝来して鶴丸城の御用意刀として襲蔵され、一口は島津の分家樺山家に伝わり、縁頭と鐺が正幸自身の手になる薩摩拵を伴う。指定を受けた作の多くは、私蔵のものを含めて取引されず保たれており、本工得意の相州伝の在銘の良品が市に出るのは時に、そして忍んで初めてである。本工の作は、古伝の固く保たれた遺産に比べては、一流の新々刀の名工の中では比較的見出しやすいが、年紀と行年を切った覇気のある相州伝の刀はなお相応の収集であり、薩摩の鍛刀が奥元平と並んで末期の頂に至った証である。
正幸の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 薩摩
現在32点販売中
薩摩国の刀工群は、南九州の地に拠り、島津家の庇護のもとに鍛刀した一団である。その源は古く、構成各工の説明書は大和に発する波平の系をその背後に置く。新刀の一平安代は、初め父一平安貞に法を習い、のちに波平本家の大和守安国の門に学んだと記され、薩摩の鉄が大和・波平の修業を地下に伏せていることを示す。記録に明らかな手としては、美濃氏房の子に出た伊豆守正房が元和・寛永の頃に薩州鹿児島に住し、薩摩鍛冶の渕源を成したとされる。これに続いて享保の頃、宮原清右衛門こと主水正正清と、玉置小市こと一平安代とが八代将軍徳川吉宗に召されて江戸で鍛え、その技を認められて茎に一葉葵紋を切ることを許された。この二工が薩摩新刀の双璧を成し、安代の養子安在が二代の一平として家を継いだ。時を下って新々刀の頃には、奥家の奥元平と伊地知家の伯耆守正幸とが同じく双璧として並び立ち、正良が伊地知家の名を襲い、正景が正幸の門から出て加治木島津家に抱えられた。皇室・徳川・島津・近衛の名がその伝来を貫き、この一国の工が藩の最上の家に直結していたことを語る。 作風は、構成各工が実際に記す共通の語法によって読まれる。背骨をなすのは志津に倣った相州伝であり、正清・元平・正幸・正良のいずれもがこれを最も得意とした手として説明書に名指される。よく練れて流れる板目に小のたれ・互の目を焼き、尖りごころの刃を交え、匂深く、沸が厚く強くつき、荒沸を顕著に交える。この静と動の二筋がこの群を貫く。安代と安在は穏やかなのたれ調の直刃、あるいは広直刃を多く焼き、正清と新々刀の双璧は尖り刃を交えた変化のある乱れを焼くが、いずれも沸を本領とする点で一つである。その刃の内を走るものこそ薩摩の名高い見どころで、説明書はこれを薩摩の芋蔓と称し、盛んな砂流しと長く太い金筋・沸筋が相絡んで連なる様を指す。地鉄はよくつんだ小板目あるいは流れごころの板目で、地沸厚く地景入り、正清・正良の地は枾がかって肌立ち、安代の地はことに黒みをおびる。帽子は乱れ込んで先尖り、あるいは直ぐに小丸・大丸へ返り、最も覇気ある作では掃きかけて火焰風となる。体配は身幅広く重ね厚く平肉豊かに中鋒延び、手持ち重く豪壮で、殆どが生ぶ茎に大振りの長銘を切る、薩摩の堂々たる構えである。 鑑定の勘所は、まずこの芋蔓の沸筋と黒める地鉄、そして頑健な造込みにあり、これらが当代の備前復古や大坂物の締まった沸と薩摩の手を分かつ。工の格は二対の双璧に集まる。新刀では正清と安代が並び、正清が古名刀に迫る志津風の乱れと焼頭に集まる湯走りの古色を見せ、安代が静かな直刃の内に長い芋蔓を走らせる。新々刀では元平と正幸が並び、ともに身幅広く堂々たる相州伝を本領とし、正幸は志津に倣う手を、元平は尖り刃を交えた華やかな互の目を得意とした。正良は師に優る出藍の誉を負い、安在は養父安代に頗る近似する手を継ぎ、正景は師正幸の志津風をよく伝え、正房は群の渕源として古来資料に貴ばれる。藤代の極めは安代を上々作、正清・元平・正良を上々作ないし上作、正幸を上作に置く。伝来は藩に固有のものが多く、正清・安代の刀は島津継豊より将軍吉宗や近衛家久に献ぜられ、家久は両工に白銀と六歌仙の歌を贈ってその文書も現存する。正幸の刀は鶴丸城の御用意刀として島津家に襲蔵され、分家樺山家には正幸自身の手になる薩摩拵を伴う一口が伝わる。これらの多くは旧家・機関に固く保たれて世に出ず、在銘の薩摩物が収集家のもとに現れるのは稀であり、現れたときには南九州の鍛刀が藩の庇護のもとに到達した頂を示す。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトThree day, no penalty, inspection on every item. Returns must be in the same condition as shipped. Actual costs will be charged on returned items. No restocking fee. If you did not like the item is a good enough reason for return.
脇差:伯耆守正幸(鑑定) SS0480 値下げ済 売約済 大磨上無銘ながら、大鋒に棒樋と二筋樋を掻き通した、身幅広く豪壮な鎬造りの脇差です。 刃長:1尺4寸9分(45.150 cm) 元幅:3.478 cm 先幅:2.899 cm 重ね:6.79 mm 【体配】 互の目尖り、頭にわずかに砂流しかかり、刃沸つく。 【地鉄】 板目肌詰み、小沸よくつく。鮮明な棒映りあり。 【帽子】 焼幅を保ち、そのまま先へ抜ける。 研ぎの状態は良好で、上質な金着一重白銀を添え、白鞘に収められています。 美術日本刀保存審査会による昭和55年1月19日付の鑑定書が付属し、初代伯耆守平朝臣正幸と極められています。 正幸は薩摩の工で、三代正良ののち、伯耆守を受領し正幸と改めました。藤代義雄著『日本刀工辞典 新刀篇』では上々作に列せられ、得能一男著『刀工大観』では鑑定評価額550万円とされています。また『新々刀大観』にも数ページにわたり所載されています。1998年時点で22振が重要刀剣に指定されるなど、薩摩刀の最高峰の一人です。 なお、本鑑定書には「重要脇差」との添え書きがありますが、これは本刀の出来映えを称えたものであり、日本美術刀剣保存協会(日美刀保)の重要刀剣指定とは異なりますのでご留意ください。 鑑定書によれば、本作は元々2尺5寸(約75.76 cm)の太刀であったものを大磨上としたものと記されています。 (画像:通常の脇差とのサイズ比較) (画像:美術日本刀保存審査会 鑑定書) (参照:『新々刀大観』『日本刀工辞典 新刀篇』『刀工大観』1725頁)





















Ijichi (Satsuma), shinshinto · 薩摩 · 1772-1817頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
現在5点販売中
伯耆守正幸は二代伊地知正良の子で、薩摩の藩工伊地知家の工、享保十八年に生まれた。三代目を継いで初めは正良と銘し、宝暦の頃よりの作が記録に残る。寛政元年、年長の同郷の工奥元平が大和守を受けると同時に伯耆守を受領し、正良の名を嫡男に譲って、自らは正幸と改めた。作歴は長く、年紀と行年を切る作が八十五歳まで残り、文政元・二年、八十六・七歳で没している。説明書は本工を、今に至るまで変らぬ一つの併称で位置づける。奥元平とともに薩摩新々刀の双璧と称えられ、説明書自身の言葉で、奥元平とともに「薩摩新々刀中の双璧」[[c:1]]であるとする。父祖に優る技量を示し、出藍の誉が高かったと同じ説明書は記す。
本領は、説明書が本工得意の相州伝と称する身幅広く長寸で頑丈な造込みの刀であり、本工自らこれを相州伝と呼び、説明書は「自から相州伝という」[[c:2]]と記す。体配は身幅広く重ね厚く鋒延び、一般に頑丈な造込みである。その上に浅いのたれ調の互の目乱れを焼き、尖りごころの刃を交える。尖りを帯びた互の目こそ、極めが本工の得意として最も多く挙げる見どころであり、匂深く、沸厚くやや荒めにぱらぱらとつき、荒沸を交える。刃を貫いて頻りな砂流しと長い金筋がかかり、これが薩摩で芋蔓と称される沸の流れ筋である。尖り刃と流れる蔓とが本工を認める背骨であり、丁子にあらず荒い沸に読む相州伝であって、説明書はその手本を直に名指し、本工の作風を「相州伝、就中、志津に倣った作柄を得意としている」[[c:3]]とする。
下地の地鉄は終始変らぬところである。よく練れた板目、多く杢・流れ肌を交えてつみ、地沸厚く地景風の黒い変りがね入り、最上の作では明るく冴える。その上で帽子は乱れ込みあるいは直ぐに小丸・大丸に返り、先を掃きかけて時に沸崩れごころとなる。説明書が茎そのものに鑑定点として挙げる一つの見どころがある。茎は殆んど生ぶで、剣形あるいは入山形の先へ細り、鑢目勝手上り、太鏨の大振りの長銘を切り行年を添えるものが多い。そして大半の刀に棒樋を彫るのは、身幅広く重ね厚い関係からと説明書は記し、身幅が比較的尋常な作にのみ樋を掻かない。
記録は銘と時期で分かれる。前期、受領と改名の前に正良と銘した作は、覇気ある相州伝の手が現れる前の、より静かな面として読まれる。小のたれに互の目を交え、足・ほつれ入り、厚く沸つき処々荒沸つき砂流しかかり、帽子は大丸ごころとなって先沸崩れる。その前期の刃の下地はすでに本領に持ち込む薩摩の鉄であり、大板目の目立つ広い板目に流れごころを交えるから、正良の面は別の伝ではなく同じ手を静かに保ったものである。年紀作の中には日付を超える銘もある。寛政十二年の一口は、庚申の日が一年に七度当たる年に鍛えた刀は武運長久を得るという庚申信仰を切り、説明書が珍しいとする銘であり、別の一口は茎に「南無八幡大菩薩」の神号を彫る。
同国の中で本工を位置づけるのは、まさに極めの言う併称と説明書の立ち返る手である。まず年長の同郷の工元平に対して読まれ、両者は薩摩新々刀の双璧として併べられる。一方は奥家、一方は伊地知家であり、同年に受領した。他と分かつのは借りものの比較ではなく本工自身の描かれた見どころである。身幅広く頑丈な姿、匂深い互の目乱れに交わる尖り刃、掃きかけの帽子に通じる荒沸、そして流れる芋蔓である。説明書はその品位をこの蔓に照らして測り、島津家伝来の一口を、かえって「芋蔓風の金筋・沸筋」[[c:4]]が表れぬがゆえに品位が高いと称える。本工は伊地知家の筆頭に立ち、この系の薩摩新々刀を読む手である。
収集の観点では、本工は薩摩末期の屈指の名であり、藤代の極めは上作である。国宝はなく、重要文化財もない。現代の指定は重要刀剣の級を通じ、二十八口がこの級にあり、寛政の頃から歿年近くに及ぶ作歴にわたって、いずれも生ぶ・在銘である。その中の伝来は格高く、彼の藩に固有である。一口は薩摩藩主島津家に伝来して鶴丸城の御用意刀として襲蔵され、一口は島津の分家樺山家に伝わり、縁頭と鐺が正幸自身の手になる薩摩拵を伴う。指定を受けた作の多くは、私蔵のものを含めて取引されず保たれており、本工得意の相州伝の在銘の良品が市に出るのは時に、そして忍んで初めてである。本工の作は、古伝の固く保たれた遺産に比べては、一流の新々刀の名工の中では比較的見出しやすいが、年紀と行年を切った覇気のある相州伝の刀はなお相応の収集であり、薩摩の鍛刀が奥元平と並んで末期の頂に至った証である。
正幸の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 薩摩
現在32点販売中
薩摩国の刀工群は、南九州の地に拠り、島津家の庇護のもとに鍛刀した一団である。その源は古く、構成各工の説明書は大和に発する波平の系をその背後に置く。新刀の一平安代は、初め父一平安貞に法を習い、のちに波平本家の大和守安国の門に学んだと記され、薩摩の鉄が大和・波平の修業を地下に伏せていることを示す。記録に明らかな手としては、美濃氏房の子に出た伊豆守正房が元和・寛永の頃に薩州鹿児島に住し、薩摩鍛冶の渕源を成したとされる。これに続いて享保の頃、宮原清右衛門こと主水正正清と、玉置小市こと一平安代とが八代将軍徳川吉宗に召されて江戸で鍛え、その技を認められて茎に一葉葵紋を切ることを許された。この二工が薩摩新刀の双璧を成し、安代の養子安在が二代の一平として家を継いだ。時を下って新々刀の頃には、奥家の奥元平と伊地知家の伯耆守正幸とが同じく双璧として並び立ち、正良が伊地知家の名を襲い、正景が正幸の門から出て加治木島津家に抱えられた。皇室・徳川・島津・近衛の名がその伝来を貫き、この一国の工が藩の最上の家に直結していたことを語る。 作風は、構成各工が実際に記す共通の語法によって読まれる。背骨をなすのは志津に倣った相州伝であり、正清・元平・正幸・正良のいずれもがこれを最も得意とした手として説明書に名指される。よく練れて流れる板目に小のたれ・互の目を焼き、尖りごころの刃を交え、匂深く、沸が厚く強くつき、荒沸を顕著に交える。この静と動の二筋がこの群を貫く。安代と安在は穏やかなのたれ調の直刃、あるいは広直刃を多く焼き、正清と新々刀の双璧は尖り刃を交えた変化のある乱れを焼くが、いずれも沸を本領とする点で一つである。その刃の内を走るものこそ薩摩の名高い見どころで、説明書はこれを薩摩の芋蔓と称し、盛んな砂流しと長く太い金筋・沸筋が相絡んで連なる様を指す。地鉄はよくつんだ小板目あるいは流れごころの板目で、地沸厚く地景入り、正清・正良の地は枾がかって肌立ち、安代の地はことに黒みをおびる。帽子は乱れ込んで先尖り、あるいは直ぐに小丸・大丸へ返り、最も覇気ある作では掃きかけて火焰風となる。体配は身幅広く重ね厚く平肉豊かに中鋒延び、手持ち重く豪壮で、殆どが生ぶ茎に大振りの長銘を切る、薩摩の堂々たる構えである。 鑑定の勘所は、まずこの芋蔓の沸筋と黒める地鉄、そして頑健な造込みにあり、これらが当代の備前復古や大坂物の締まった沸と薩摩の手を分かつ。工の格は二対の双璧に集まる。新刀では正清と安代が並び、正清が古名刀に迫る志津風の乱れと焼頭に集まる湯走りの古色を見せ、安代が静かな直刃の内に長い芋蔓を走らせる。新々刀では元平と正幸が並び、ともに身幅広く堂々たる相州伝を本領とし、正幸は志津に倣う手を、元平は尖り刃を交えた華やかな互の目を得意とした。正良は師に優る出藍の誉を負い、安在は養父安代に頗る近似する手を継ぎ、正景は師正幸の志津風をよく伝え、正房は群の渕源として古来資料に貴ばれる。藤代の極めは安代を上々作、正清・元平・正良を上々作ないし上作、正幸を上作に置く。伝来は藩に固有のものが多く、正清・安代の刀は島津継豊より将軍吉宗や近衛家久に献ぜられ、家久は両工に白銀と六歌仙の歌を贈ってその文書も現存する。正幸の刀は鶴丸城の御用意刀として島津家に襲蔵され、分家樺山家には正幸自身の手になる薩摩拵を伴う一口が伝わる。これらの多くは旧家・機関に固く保たれて世に出ず、在銘の薩摩物が収集家のもとに現れるのは稀であり、現れたときには南九州の鍛刀が藩の庇護のもとに到達した頂を示す。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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