新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
出羽大掾藤原國路 -Dewa Daijo Fujiwara Kunimichi- 刃長44.11センチ 反り0.9センチ 元幅33.1ミリ 物打幅30.15ミリ 元重ね7.8ミリ 物打重ね6.3ミリ 目釘穴1個 裸身重量480グラム 江戸初期 The early Edo period 昭和45年6月3日 群馬県登録 附属 特別保存刀剣鑑定書、素銅地金着二重はばき、白鞘 出羽大掾藤原國路は、年紀と行年を切った遺作から天正4年(1576)の生まれと考えられる、新刀期山城国の名工です。初銘を國道とし、慶長14年(1609)頃から國路へ改銘、のち出羽大掾を受領しました。新刀の祖として名高い堀川國廣の高弟に数えられ、國廣門下でも指折りの技量と幅広い作域を示した刀工として知られる一方、伊賀守金道をはじめとする三品派との関係も深かったと考えられ、相州伝に美濃伝の力強さを加味した変化豊かな作を残しています。作刀期間は慶長から寛文初年まで半世紀以上に及び、上々作に列せられ、斬れ味の評価では業物に挙げられるなど、地刃の美しさと実用の強靱さを兼ね備えた名手です。 本作は平造、庵棟、刃長44.11センチの脇指で、元幅33.1ミリ、元重ね7.8ミリと堂々たる量感を備え、物打に至っても幅30.15ミリ、重ね6.3ミリを保つため元先の幅差が目立って開かず、やや強く付いた反りと相俟って、短い寸法のうちに張りと力を凝縮した豪壮な姿を見せています。裸身重量480グラムという数値からも地鉄を十分に残した健全な造り込みがうかがえ、横手を設けない平造ならではの伸びやかな平地へ、國路得意の地刃の景色が大きく展開する点は本作の大きな見どころです。 地鉄は小板目がよく錬れて杢目を交え、地沸が付いて肌立ちごころとなり、細やかな地景が織り込まれることで、光の角度に応じて鍛え肌の奥行きが静かに浮かび上がります。刃文は匂口明るく冴え、小沸を豊かにまとった湾れ調子へ互ノ目を交え、刃中には足が入り、刃縁には砂流が幾筋も働いて単調さを見せず、表裏で異なる起伏を追うほど國路らしい相州伝色の濃い躍動を堪能できます。鋩子はその勢いのまま乱れ込んで先丸く返り、厚い重ねと広い平地へ展開する沸出来の焼刃が、豪快さの中にも明るく冴えた品格を添えています。 茎は生ぶで、目釘穴は一個、指表には「出羽大掾藤原國路」と力強い長銘が切られています。日本美術刀剣保存協会の特別保存刀剣鑑定書が附属することは、銘と出来のみならず保存状態を含めて一段高い評価を受けた確かな支えとなり、國路の作域を安心して収蔵できる点も見逃せません。刃長44センチ余の取り回しやすい脇指でありながら、33.1ミリの元幅と厚い重ねが生む迫力、よく錬れた地鉄、明るい匂口に砂流と足が盛んに働く刃文を余すところなく味わえ、さらに素銅地金着二重はばきと白鞘まで整った、堀川一門の魅力を凝縮した鑑賞性の高い一振です。











新刀 · 山城
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堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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