二代播磨守忠國は、初代忠國の子で、弾左衛門と称し、初銘を治國ときり、父初代の隠居後に忠國を襲名した。年紀作は「延宝五年八月日」紀から「貞享二年二月日」紀のものまで見られ、元禄・貞享の頃がその活躍期であった。作刀の殆どに、表には菊紋・裏に蟹牡丹紋をきっており、これは恐らく近衛家と深い関係があったものであろう。現存する作刀は稀れである。
作風は、初代同様に互の目に丁子を交えた乱れ刃と直刃の両様がある。鍛えは小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る。乱れ刃の出来は、直ぐに焼き出して、その上は互の目に小のたれ・丁子風の刃・小互の目などを交え、足よく入り、葉を交え、匂深く、沸厚くつき、荒めの沸を交え、総体に砂流しかかり、金筋入り、匂口明るい。直刃の出来は、中直刃に小足ごころ入り、小沸よくつき、細かに金筋・砂流しかかり、匂口明るく、上品な作柄に仕上がる。帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。茎は生ぶで、佩表錆下中央に菊紋をきり、その下棟寄りに長銘がある。なお元に直ぐの焼出しがあるが、この状は傍肥前の諸工にまま見受けられるところである。
殊に焼刃が匂深で、沸が厚くつき、匂口の明るい点にはこの工の技術の高さが窺える。また刃中総体に砂流しのかかった態には、忠國一派の伝統的な特色が察知される。直刃の作にあっても小沸がむらなくよくつき、匂口の明るい点には特筆すべきものがあり、作品の少ない同作の中でも白眉と称される。この時代の肥前刀工中でも屈指の一人であり、父に優るものがあると評され、二代忠國の卓抜した技量の高さが存分に発揮されている。