肥前吉信は中島新五兵衛の三男で、通称を弥七兵衛といい、初代忠吉の婿養子として佐賀の肥前一門草創の工房に入った。その子に初代正広・初代行広があり、後に一派を担う二つの系統に連なるため、吉信は同派初期の要に立つ工である。説明書は本工を初代忠吉の補佐的な役割を担った工と読み、その遺例は少ないとする。藤代の極めで上作。寛永十年歿との伝えがあるが、説明書は作そのものからこれを正し、現存する寛永十三年紀の作刀と吉信宛ての寛永十四年付の消息から、歿年は誤伝であろうと結論する(「歿年は誤伝であろう」)。その名を負う数少ない作は、肥前一門草創の世を貫く資料の糸である。
本工の特色とする手は、初期肥前一門の華やかで覇気ある一翼である。刃文は互の目・丁子を主調に焼き高く賑やかに乱れ、小互の目や尖りごころの刃を交えて変化に富む。これに匂深く沸よくつき、総体に砂流しがかかり金筋が入り、処々に飛焼を交え、匂口は明るい。説明書はある一口を、互の目に丁子を交じえた覇気あるものと評し(「覇気あるもの」)、この手をもって肥前刀の特色がよく表示されていると繰り返し説く(「肥前刀の特色がよく表示されている」)。一門が締まった静かな刃で知られるのに対し、本工はその刃幅と働き、活きた沸と明るい匂口にこそ個性が読まれる。帽子は小丸にやや深く返り、あるいはのたれ込んで先を掃きかける。
地鉄は小板目肌がよくつんで整い、その上に地沸が微塵によくつき、地景が細かに入る。棟寄りには僅かに流れ肌を交える一口もある。肥前刀の潤いある精緻な地鉄をより働きのある作域に運んだもので、その上の刃は抑えるのではなく賑やかである。現存する脇指は身幅一段と広く、寸延びて重ね厚く、これらにあって説明書は焼きが高く華やかに乱れると記し(「焼きが高く華やかに乱れ」)、乱れの谷に一段と沸がついて凝った態となるとする。平造の作には彫物も伴い、梵字に爪附剣、掻き流す護摩箸を施し、説明書はその彫を簡素ながら刀身とよく調和すると見る。
数少ない記録の作は、一つの手を共有する二つの作域に分かれる。鎬造の刀は反り深く中鋒延びて、刃は互の目を主調とするもの、丁子乱れを主調とするものがあり、足・葉がよく入る。幅広の平造脇指は華やかさを最も推し進め、大模様の文様と一際華やかな乱れ刃で刃取りに変化をもたせ、説明書はこれを上々の出来とする。記録される四口はいずれも太鏨で大振りに切られた長銘の在銘で、説明書はことにその銘振りに注目し、初代忠広の献上銘や初代正広の任官前の初期銘に酷似すると注記する。
一派の中で説明書は吉信を先駆と位置づける。その焼き高く華やかな乱れを、後世「傍肥前」と汎称される作風の先駆的な作柄と読み(「傍肥前」)、これを子である初代正広の任官前の若打に直に通じるものとし、同種の造込みと同手の彫物がその作にも見られるとする。説明書はこれを親子の作風の共通性が窺えて興味深いとし(「親子の作風の共通性」)、その個性は覇気ある働いた家系の一翼として、草創の世代から後の華やかな手へと架かる橋として読まれる。その明るい乱れ、広く流れる砂流し、処々の飛焼は一門の静かな本体から作を分かち、銘振りの初代忠広・初代正広への酷似はこれを派の中枢に確と結びつける。
藤代の極めで上作、その名を負う指定はすべて重要刀剣にとどまり、記録される作に国宝も重要文化財もなく、来歴の伝えもその折紙に残らない。重要刀剣の脇指の一口は千葉の成田山新勝寺に伝わり、その刀身彫は後世に佐賀の人で本業を画家とする浅井忠正が手懸けたものである。説明書はこれら数少ない指定作を、出来とともに資料的価値の点で重んじ、数少ない吉信作品中の佳品と呼び(「数少ない吉信作品中の佳品」)、彼の作域を研究する上で資料的にも貴重とする(「彼の作域を研究する上で資料的にも貴重」)。収集家が現実に接し得るのは、これら在銘の重要刀剣の一口、すなわち正広・行広の系統の根にある華やかな初期肥前の手の稀少な記録であり、その市に現れることは稀にして、在銘の一例が現れれば記すべき出来事である。