初代伊予掾源宗次は、堺三右衛門と称し、代々長瀬村(忠吉の出身地)の天満宮の神職にあたった家柄と伝えられている。のちに佐賀城下の長瀬町に移って鍛刀し、さらに肥前諫早に転じたという。伊予掾受領の時期については、宗次の子孫である境家に伝えられている古文書の中に、『伊予掾宗次系図』が存在し、それに拠れば、慶長十一年であることが理解され、慶長十二年紀で伊予掾を冠した作刀が遺存している。肥前刀工群中にあって特異な存在であり、同工の作刀は、新刀期における肥前鍛冶の多様性を示す上で重要な位置を占める。
作風は、板目肌立ちごころに杢交じり、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入る鍛えを特徴とする。刃文は、互の目乱れを基調とし、小のたれ、角がかった刃、尖り刃、小互の目など多種の刃が入り交じる。足・葉がよく入り、沸厚くつき、荒めの沸を交えて処々むらづき、砂流し、金筋が頻りにかかる。帽子は乱れ込み、掃きかける作が多い。茎仕立も相州伝を意識した為か、刃方の肉を落したタナゴ腹風のもので、指表に独特の銘字をきることを通例とする。地刃がよく沸づき、盛んな乱れを焼いて尖り刃を交え、金筋・砂流し等がかかるなど、相州伝、とりわけ志津風の作域をあらわす点に特色がある。肥前刀一般が帽子を直ぐに小丸に焼くのに対して、その殆どが乱れ込んだものとなっている点も注目される。
宗次の作刀は、地刃の働きが豊富で、しかもよく沸づき、焼刃が華やかであると評される。特に、尖り刃を交え、帽子が大丸風に浅く返ってさかんに掃きかける作は、志津風の作柄を示して成功している。作柄は総じて小模様で穏やかなものから、焼幅広く、のたれ調に互の目・尖り刃・丁子など交え、焼きに高低を見せ、足・葉盛んに入り、沸よくつき、処々強く沸づいて叢となり、湯走り・飛焼・棟焼を見せるなど、まるで燃え上がる様な烈しさを見せるものまで、多様な作風を示す。幅広にして、やや長寸で頑健な体配を示し、肉置が豊かで豪壮な作が多い点も評価される。