二代正広は初代河内大掾正広の子で、寛永四年に生まれ、初め佐伝次と称した。父の在世中は武蔵守正永と銘し、万治三年に武蔵大掾を受領、翌寛文元年に武蔵守に転じた。寛文五年二月五日、彼が三十九歳の時に父が歿し、同年四月十三日に河内守に転じている。正広銘の襲名については、口宣案に「武蔵守藤原正広、宜任河内守」とあることから、説明書は「おそらく初代正広歿後すぐのことであろう」とする。元禄十二年、七十三歳で歿した。父と同じく本家の協力者の一人であったとみられる。
説明書は本工を父に極めて近いものとして読む。直刃・乱刃ともに父につぐ上手で、「殆んど甲乙つけがたいものがある」と記し、作柄は直刃・乱れ刃ともに初代正広さながらで、技術は父に劣らないとする。なかでも乱れ刃を得意とし、焼幅を広く取って華やかな丁子乱れを展開するところは「正に彼の独壇場である」と評される。
その乱れ刃は丁子を主調に互の目を交え、焼幅広く大模様に乱れるものである。刃中に頭の丸い互の目や矢筈風の刃を交える点に、二代正広の刃取りの特徴が窺えるとされる。足・葉よく入り、匂深く沸厚くつき、処々谷に沸が凝り、金筋・砂流しがさかんにかかる。飛焼を交えるものもあり、ある一刀は「同作中最も華やかな出来を示したもの」とされる。傍肥前の諸工と同じく、元に直ぐの焼出しを見せることもある。地鉄は小板目肌がよくつみ、地沸が微塵に厚くついて地景が細かに入り、肥前刀特有の米糠肌状と記される作が多く、頑健な一刀では肌目が立つとされる。帽子は直ぐに小丸に返る。
直刃は本工のもう一つの作域であり、説明書は「初代正広よりも直刃の作品が多く見られることにも注意したい」と特に記す。直刃の作は乱れ刃より少ないものの父よりは多く見られ、出来にむらがなく総じて優れているという。典型の中直刃の刀では地がねが一段とよく約むとされ、匂深の中直刃の一刀は直刃を得意とした本家の作を見るようであるという。常々の直刃より一際匂深く沸厚くつき、働きの豊富な二口の刀には「或種の放胆さが窺えて」と評される。姿は身幅広く重ね厚く、手持ちの重い頑健なものが多く、時に鋒が延びて大鋒となる。
初・二代の別は銘に見る。二代は「肥前国河内守藤原正広」と切るものが最も多く、中には「藤氏」と切ったものもある。説明書は「藤」と「廣」の字形に父子の相違を挙げ、二代の「廣」は一画多いとする。彫物は極めて少なく、寛文十二年紀の一刀には後に信国美直が彫物を施し、寛文十三年の山野勘十郎の截断銘を伴う。
藤代の極めは上作。国宝・重要文化財はなく、その記録は重要刀剣の位にあり、指定を受けた作は二十六口である。大きく乱れ刃を焼き、日月等の飛焼を交えた一刀は最高の出来とされ「肥前刀を代表する一刀である」と称えられ、山野勘十郎久英の截断金象嵌銘と「継小袖」の号を有する。別の一刀には「剪風」の号らしき試し銘があり、説明書は肥前刀に試し銘のあるものは極めて稀であると記す。寛文七年紀の脇指はその年紀が好資料とされる。来歴の記録は乏しく、在銘の重要刀剣が市に現れるのは時折のことである。