出羽守行広は橋本吉信の次男にして河内大掾正広の弟であり、すなわち初代忠吉の孫として、元和三年の生まれより肥前忠吉の大家のうちにあった。その作刀は本家ではなく傍系、すなわち傍肥前・脇肥前にあって、その名工中の筆頭となった。正保五年に出羽大掾を受領し、寛文三年に出羽守に転じ、天和二年に六十六歳で歿している。実子の二代行広は初銘を行永と切り藤馬丞と号し、貞享元年に出羽守を受領したが、その作風は父に準じること甚だしく、無年紀作の代別は「国」「廣」の字形や「藤馬丞」の冠によって判じられ、しばしばさらなる資料を俟って判断が保留される。
行広が最も知られた作域は華やかな丁子乱れである。一門のよくつんだ小板目の地に、互の目・角ばる刃・頭の丸い互の目・矢筈風の刃を交えた丁子乱れを焼き、焼幅広く、大きく華やかに乱れる。足長くさかんに入り、匂深く、沸厚くついて処々荒めの沸を交え、総体に砂流し長くかかって金筋がよく入る。説明書はその見どころを正確に捉え、その優品の一口について「竪長の足長丁子乱れは、初代行広にまま見るところであり、同工の特色が表示されている」と記す。これこそ「彼が得意とした丁子主調の乱れ刃」であり、覇気に富んだ作にあっては、極めの言うところ、「むしろ兄の正広の作柄を思わせるものである」。
地鉄は両様の作域に通う変わらぬところである。小板目をよくつんで肥前の米糠肌となし、地沸が微塵に厚くつき地景の細かに入った地で、かねは明るく、時にやや黒みがかる。その地に帽子は直ぐの小丸あるいは大丸、しばしば先に掃きかけて長く返り、幅広く乱れた作では物打辺に棟焼や湯走り風の飛焼を交える。匂口はその記録を通じて明るく冴え、精良な米糠肌の上の明るい匂口こそ、刃の乱れると静まるとを問わず行広の帯びる肥前刀の見どころである。
華やかな丁子と並んで行広は一門伝統の直刃をも能くし、その記録の一面に中直刃・広直刃の作域がある。同じ米糠肌の地に直刃調の刃を焼き、小互の目や、元には腰刃をおもわせる角ばるのたれを交え、小足・葉入り、匂深く小沸厚くつき、細かに砂流し・金筋がかかる。ある広直刃の刀について説明書は、その姿が本家の直刃と見紛うほどであるとし、同工としては比較的珍しい直刃の作例ながら「本家の直刃に見紛う出来映え」と称えて、その技術の高さを窺わせるとする。伊勢神宮に奉納された薙刀も同じ清い直刃を示し、匂口は明るく冴える。これらと直交して走るのが初代に特有の一筋、慶安三年に長崎で阿蘭陀鍛冶久次および薬師寺種永について学んだという阿蘭陀鍛で、要するに南蛮鉄の処理の方法であり、多くの作に「以阿蘭陀鍛作之」の添銘をみて、その年紀作を説明書は貴重な資料とする。彼はまた茎に「一」の字を切ることを常とし、稀に「肥前一文字」と切ったものもあるが、これは中世の備前一文字派と混同すべき独自の銘である。
行広をその伝統の内で分かつのは、まさに極めの言うところである。華やかな足長丁子は本家の静かな直刃から彼を分かち、精良な米糠肌と明るい匂口は彼を本家のうちに留める。丁子を交えた互の目乱れの作について説明書は、これが「傍肥前の刀工たちが得意とした乱れ刃」を焼いて成功したものとし、その元の直刃の焼出しを同派の見どころの一つとして注意する。ある脇指は肥前刀の通例を逆にして、上半に丁子を、下半に直刃調の浅いのたれを焼き、同派の中では珍しい作柄を示すが、その上半はなお彼が得意とした乱れ刃であると評される。要するに彼は、忠吉本家の傍らに育った傍系の手のうち最も明るい一人であり、本家と切り離してではなく本家に照らして読まれる工である。
収集の観点では、行広は初期江戸の肥前の世界における、入手し得るがしかし稀な名である。藤代の極めは上作。国宝はなく重要文化財もなく、現存の記録はすべて重要刀剣の位に、すなわち十六口に及び、その殆んどが在銘で、説明書は数口を同作中の優品にして覇気に富むとする。遺る来歴は慎ましく確かで、伊勢神宮(大神宮)に奉納された長寸の薙刀が記録される作の一つにあり、ほかは記録の部分的な私蔵を経てきた。肥前の最上を蔵する美術館・神社の位に封じられた作がないため、在銘の出羽守行広は篤志の収集家の手の届かぬものではない。しかしその重要刀剣が世に出るのは時折のことであり、年紀のある阿蘭陀鍛の一口や、最も華やかな足長丁子の刀は、出会うに値する注目すべきもの、傍肥前の傍系が忠吉の鉄をおのが明るい作域へ運んださまを語る証である。