肥前の吉家は、指裏の棟寄りに長銘を切り、居住地を「肥前国住」とし、数口には俗名の相右衛門尉を加え、現存四口のいずれにも寛永七年すなわち一六三〇年の年紀を、二月あるいは八月の吉日として刻んでいる。説明書はその位置を明快に記す。元来橋本家の一族で、初代忠吉の直弟子であり、忠国の父である。初め広貞と銘し、後に吉家と改めた。佐賀を中心に興った同国本流の新刀、肥前忠吉派にあって、彼は開祖の身内の工に属し、その作風は一派そのもの、よくつんだ地鉄と明るい刃とによって知られる肥前刀の手である。
その手はまず地鉄に表れる。小板目を、身幅の広い作では板目を、よくつんで地沸が一面につき、一派の小糠肌を示すよくつんだ地肌をなし、一口は「ややザラつく」とされる。その上に刃文は、説明書が並べて挙げる二様、すなわち互の目に丁子を交えた乱刃と、穏やかな直刃とに焼かれる。足・葉が入り、小沸がつき、砂流しが頻りにかかって、匂口は明るく冴える。四口中もっとも早い昭和四十二年指定の刀では、同じ刃を表側から「匂深く沸よくつく」と読み、互の目に焼の高低を見せる。帽子は、直ぐな作では小丸に、乱れた作では乱れ込んで先尖りごころに掃きかけ、やや長く返る。
四口のうち一口の脇指は、姿において刀と分かれる。平造で身幅広く寸延びるのに対し、刀は鎬造・庵棟、反り浅めからやや高く、中鋒をやや延ばす。だがこの差を越えて地刃は通う。同じよくつんだ小板目に細かな地沸、同じ丁子と互の目の乱れに長い足と頻りの砂流し、同じ明るい匂口であり、脇指は別作というよりも一様の短刀姿の面と読める。茎はいずれも生ぶで、先浅い栗尻に勝手下りまたは筋違の鑢目を施す。説明書は銘の鏨に注目し、特色ある国の字を挙げ、俗名を入れた点を資料的価値として尊ぶ。
吉家をめぐる考証は、極めの当否よりも一つの経歴の事実に集まり、それを諸説明はほぼ同じ言葉で記す。広貞・吉家両銘とも現存する作が極めて少ないのは、初め初代忠吉の代作者の一人であり、初代没後も二代近江大掾忠広の代作者であったためとされる。昭和四十六年指定の刀はそれを「常に陰の人として生きた」と述べ、作の少なさをその役回りに読む。技倆について同じ諸本は留保がない。昭和四十四年の刀には「乱れ出来、直刃もあって、技術は優れている」とあり、他には「直刃、乱刃ともに上手で、一般には乱刃が多い」と記して、両様に巧みで乱刃が多いことを伝える。
吉家が一派の中で際立つのは、一派からの逸脱ではなく、その作風をいかに過不足なく備えているかという点にある。説明書はその作を個の逸脱ではなく同派の代表として読み、初めの重要刀剣の刀には「同工同派の特色をよく示して出来がよく」と記して、同工同派の特色をよく示すよい出来と評する。それゆえ彼の位置は、上は開祖へ、下は子へと連なる。開祖の身内にあって、その名のもとに代作を任された手であり、家系は多くの吉家銘の作よりも忠国へと受け継がれる。よくつんだ地鉄、明るい匂口、直刃・乱刃両様の手際は、生涯を他者のための作に費やした工に保たれた肥前忠吉の遺風である。
彼は藤代の格付で上作とされ、諸本はその遺作を代表作と呼び、寛永七年の年紀を資料として貴重とする。その指定作の全容は四口、いずれも第十五・十八・二十・二十三回の重要刀剣であり、刀三口に脇指一口、国宝も重要文化財も含まず、来歴の記録も付かない。これほど稀少な工、しかもその少なさを陰の生涯に帰される工にあって、在銘・年紀の吉家は、肥前刀の蒐集家が出会いうるもののうちでも稀な部類に入り、世に出ることは稀である。出たときには、開祖自らが恃んだ手のうちに、忠吉本流の小糠肌の地鉄と明るい刃とを伝えている。