室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
保存刀剣鑑定書附、二王極めの大刀 【解説】 本作は二王(におう)と極められた一口です。二王派は鎌倉時代中期から室町時代後期にかけて周防国(現在の山口県)で栄えた刀工集団であり、その伝統は江戸時代まで受け継がれました。本作の作域から、鎌倉時代後期(13世紀〜14世紀初頭)、約700年前の二王初期の作と推測されます。 二王派の祖は、周防国の二王太郎清綱と伝えられています。現存する清綱の年紀作としては、広島県・厳島神社に所蔵されている文永二年(1265年)銘のものが最古級として知られていますが、伝承では元久年間(1205年頃)から作刀を行っていたとも言われています。 清綱以降、二王の伝統は代々の刀工に受け継がれ、清房や清長など、流派の多くの工が名祖である清綱から「清」の字を継承しており、その系譜と技術の連続性を物語っています。 鎌倉・室町時代、奈良の東大寺は周防国に多くの荘園を領有していました。この歴史的背景から、二王派の刀工は奈良の大和伝の工と密接な交流があったと考えられており、技術や作風において強い影響を受けました。 そのため、二王の作風は五ヶ伝の一つである「大和伝」の特色を強く反映しています。姿は尋常で気品があり、地鉄は柾目肌が目立ち、刃文は直刃を基調とするのが特徴です。これらの要素が相まって、大和伝の古典的な趣を湛えた、実用的かつ格調高い姿を見せています。 同時に、二王派は世代を重ねる中で独自の地域的特色も育み、西国における確固たる作刀伝統を築き上げました。 「二王」という名の由来については諸説あります。 有名な伝説によれば、ある時、仁王像を安置する寺院が火災に見舞われました。その際、流派の祖である清綱の太刀を用いて仁王像に繋がれた鎖を断ち切り、像を救い出したことから、清綱とその一門が「二王」と呼ばれるようになったと伝えられています。 また別の説では、伝説ではなく地名に由来するとされ、周防国の「二保庄(におのしょう)」に居住していたことから、その地名が転じて流派の名になったとも言われています。 いずれの説にせよ、二王派は周防の地で極めて息の長い伝統を保ちました。その作品は大和伝の重要な地方展開を示すものであり、中世における奈良と西国間の技術伝播を知る上でも貴重な資料といえます。 ※刀身には数箇所、鍛え傷(きたえきず)が見受けられます。詳細な状態につきましては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):74.8 cm 反り(Sori):1.8 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の模様 切先(Kissaki):中切先


























脇物 · 周防 · 1504-1521頃
現在4点販売中
二王の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
脇物 · 周防
現在15点販売中
周防国二王派は、山陽道の西端、大和より海路と陸路で結ばれたこの国に興った古刀の一派である。保延頃の清真または清平を祖と伝えるが、いずれにも確かな遺作を見ず、今日では鎌倉時代の清綱を事実上の祖と仰ぐ。同派の在銘作として最も古いのは「文永二年三月 清綱」[[c:1]]と書き下しの銘をもつ太刀で、厳島神社に伝わり、初代を鑑する基準作とされる。次いで建武二年紀の「防州玖珂庄清綱」銘の短刀が知られ、清綱の名が鎌倉末より南北朝、室町を経て新刀期に至るまで代を重ねて続いたことを示す。二王の呼称は同国仁保庄に居住したことに由来するとの説が有力である。周防には東大寺をはじめとする寺領が多く存し、二王派の作風に大和色が濃いのは、この大和本国との交流に負うものと考えられている。 構成員がそろって記すのは、柾がかって肌立つ地と、湿りをふくんだ直刃調の刃である。鍛えは板目に杢や流れ肌を交え、処々強く流れて柾がかり、細かに肌立ち、地沸がつき、地景の入るものもある。刃文は細直刃を基調とし、小互の目、小乱れ、小のたれを交え、小足・葉が入り、刃縁にほつれ・打のけ・喰違刃を見せ、小沸つき、金筋・砂流しがかかる。そして地鉄には冴えた映りではなく白け映りが立ち、これと対をなして匂口がうるむ。この白け映りとうるみの取り合わせこそ、構成員が立ち返って同派の個性と名指すところである。帽子は直ぐに小丸へ返るものが多い。鎌倉末期の古二王、すなわち清綱の手は、太刀が細身で鎬高く腰反り高い姿を示し、短刀は平造でわずかに内反りつく。これに対し応永頃の清永ら後代の末二王は、小板目のよく約んだ地に流れ柾を交え、身幅広く反りの浅い平造短刀を多く遺し、櫃内に鶴亀や二王の彫を施す作も見せて、古二王の静けさからやや作域を広げる。 鑑定の勘所は、拠り所を同じくする大和や青江、山城来の直刃とどう分かつかにある。流れて柾がかる鍛えは大和の血脈を望ませ、細直刃の素地は来を望ませるが、来や手掻に見る冴えた匂口は、ここではより湿った沈みごころの態に替わる。白け映りとうるみの一方ではなく、その二つが地と刃に並び立つことが、同派を他と分かつ見どころである。在銘の太刀・短刀は棟寄りに細鏨の二字銘を切り、原鑢の鷹の羽を残すものがあり、これを古い手の清綱の典型として初代に充てる。無銘大磨上の刀は、流れて柾がかり肌立った鍛え、白け映り、うるみ刃文という同じ拠り所を裏から読んで極められる。主要工としては事実上の祖たる清綱が同派を測る代であり、末二王の清永がこれに次いで一派の継続を支える。遺例は確実なものこそ多くないが、最古手の在銘太刀をはじめ在銘・無銘の数口が基準作に列なり、地刃に緩みなく同派の特色をよくあらわす。来歴の遺るところには格があり、ある太刀は徳川宗家の手を経て後に美術館へ納まり、在銘の一口は大阪の旧蔵を経て伝来し、年紀の基準作は厳島神社に伝存する。鷹の羽の鑢目と古い二字銘を残した在銘の清綱は、西国の鎌倉作を集める者が出会い得る最も稀なもののひとつで、現れたときには一里塚となる。 詳しく見る →
室町時代
室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
$9,626
保存刀剣鑑定書附、二王極めの大刀 【解説】 本作は二王(におう)と極められた一口です。二王派は鎌倉時代中期から室町時代後期にかけて周防国(現在の山口県)で栄えた刀工集団であり、その伝統は江戸時代まで受け継がれました。本作の作域から、鎌倉時代後期(13世紀〜14世紀初頭)、約700年前の二王初期の作と推測されます。 二王派の祖は、周防国の二王太郎清綱と伝えられています。現存する清綱の年紀作としては、広島県・厳島神社に所蔵されている文永二年(1265年)銘のものが最古級として知られていますが、伝承では元久年間(1205年頃)から作刀を行っていたとも言われています。 清綱以降、二王の伝統は代々の刀工に受け継がれ、清房や清長など、流派の多くの工が名祖である清綱から「清」の字を継承しており、その系譜と技術の連続性を物語っています。 鎌倉・室町時代、奈良の東大寺は周防国に多くの荘園を領有していました。この歴史的背景から、二王派の刀工は奈良の大和伝の工と密接な交流があったと考えられており、技術や作風において強い影響を受けました。 そのため、二王の作風は五ヶ伝の一つである「大和伝」の特色を強く反映しています。姿は尋常で気品があり、地鉄は柾目肌が目立ち、刃文は直刃を基調とするのが特徴です。これらの要素が相まって、大和伝の古典的な趣を湛えた、実用的かつ格調高い姿を見せています。 同時に、二王派は世代を重ねる中で独自の地域的特色も育み、西国における確固たる作刀伝統を築き上げました。 「二王」という名の由来については諸説あります。 有名な伝説によれば、ある時、仁王像を安置する寺院が火災に見舞われました。その際、流派の祖である清綱の太刀を用いて仁王像に繋がれた鎖を断ち切り、像を救い出したことから、清綱とその一門が「二王」と呼ばれるようになったと伝えられています。 また別の説では、伝説ではなく地名に由来するとされ、周防国の「二保庄(におのしょう)」に居住していたことから、その地名が転じて流派の名になったとも言われています。 いずれの説にせよ、二王派は周防の地で極めて息の長い伝統を保ちました。その作品は大和伝の重要な地方展開を示すものであり、中世における奈良と西国間の技術伝播を知る上でも貴重な資料といえます。 ※刀身には数箇所、鍛え傷(きたえきず)が見受けられます。詳細な状態につきましては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):74.8 cm 反り(Sori):1.8 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の模様 切先(Kissaki):中切先


























脇物 · 周防 · 1504-1521頃
現在4点販売中
二王の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
脇物 · 周防
現在15点販売中
周防国二王派は、山陽道の西端、大和より海路と陸路で結ばれたこの国に興った古刀の一派である。保延頃の清真または清平を祖と伝えるが、いずれにも確かな遺作を見ず、今日では鎌倉時代の清綱を事実上の祖と仰ぐ。同派の在銘作として最も古いのは「文永二年三月 清綱」[[c:1]]と書き下しの銘をもつ太刀で、厳島神社に伝わり、初代を鑑する基準作とされる。次いで建武二年紀の「防州玖珂庄清綱」銘の短刀が知られ、清綱の名が鎌倉末より南北朝、室町を経て新刀期に至るまで代を重ねて続いたことを示す。二王の呼称は同国仁保庄に居住したことに由来するとの説が有力である。周防には東大寺をはじめとする寺領が多く存し、二王派の作風に大和色が濃いのは、この大和本国との交流に負うものと考えられている。 構成員がそろって記すのは、柾がかって肌立つ地と、湿りをふくんだ直刃調の刃である。鍛えは板目に杢や流れ肌を交え、処々強く流れて柾がかり、細かに肌立ち、地沸がつき、地景の入るものもある。刃文は細直刃を基調とし、小互の目、小乱れ、小のたれを交え、小足・葉が入り、刃縁にほつれ・打のけ・喰違刃を見せ、小沸つき、金筋・砂流しがかかる。そして地鉄には冴えた映りではなく白け映りが立ち、これと対をなして匂口がうるむ。この白け映りとうるみの取り合わせこそ、構成員が立ち返って同派の個性と名指すところである。帽子は直ぐに小丸へ返るものが多い。鎌倉末期の古二王、すなわち清綱の手は、太刀が細身で鎬高く腰反り高い姿を示し、短刀は平造でわずかに内反りつく。これに対し応永頃の清永ら後代の末二王は、小板目のよく約んだ地に流れ柾を交え、身幅広く反りの浅い平造短刀を多く遺し、櫃内に鶴亀や二王の彫を施す作も見せて、古二王の静けさからやや作域を広げる。 鑑定の勘所は、拠り所を同じくする大和や青江、山城来の直刃とどう分かつかにある。流れて柾がかる鍛えは大和の血脈を望ませ、細直刃の素地は来を望ませるが、来や手掻に見る冴えた匂口は、ここではより湿った沈みごころの態に替わる。白け映りとうるみの一方ではなく、その二つが地と刃に並び立つことが、同派を他と分かつ見どころである。在銘の太刀・短刀は棟寄りに細鏨の二字銘を切り、原鑢の鷹の羽を残すものがあり、これを古い手の清綱の典型として初代に充てる。無銘大磨上の刀は、流れて柾がかり肌立った鍛え、白け映り、うるみ刃文という同じ拠り所を裏から読んで極められる。主要工としては事実上の祖たる清綱が同派を測る代であり、末二王の清永がこれに次いで一派の継続を支える。遺例は確実なものこそ多くないが、最古手の在銘太刀をはじめ在銘・無銘の数口が基準作に列なり、地刃に緩みなく同派の特色をよくあらわす。来歴の遺るところには格があり、ある太刀は徳川宗家の手を経て後に美術館へ納まり、在銘の一口は大阪の旧蔵を経て伝来し、年紀の基準作は厳島神社に伝存する。鷹の羽の鑢目と古い二字銘を残した在銘の清綱は、西国の鎌倉作を集める者が出会い得る最も稀なもののひとつで、現れたときには一里塚となる。 詳しく見る →
室町時代
室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
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