Q812. 鉄地透鐔。8 x 8.5 x .5 cm。中心孔は .8 x 2.7 cm。 山吉兵と銘があり、これらの鐔に典型的な、耳の微細な鉄骨と、深く柔らかい焼手(部分的に溶けた)の質感を備えています。 透かしは蜻蛉で、状態は極めて良好です。










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鐔工 · 尾張
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御多福木瓜形の車透鐔は、姓を略さず「山坂吉兵」と銘を切り、説明書はこれを「同作中の傑出のものである」[[c:1]]とする。この一枚に彼の作のすべてが示される。槌目に仕立てた鉄地に鉄骨と称される硬い鉄のこぶを見せ、一つの意匠を大胆に透かす。山吉兵は法安とともに尾張の鉄鐔を代表する鐔工に数えられ、信家や金山とほぼ時代を同じくして室町末期から桃山時代に栄え、元来は織田家の甲冑鍛冶ともいわれる。その名は数代に継がれた。説明書は、「山坂吉兵へ」と姓を略さず切るものが最も作風的に古く、元亀頃の人であり、以後数代続いて寛文から元禄の人が桜山吉と称されたとする。そのように銘を切る一枚は「いわゆる大初代と称される優品である」[[c:2]]とされる。
銘は「山坂吉兵」「山坂吉兵へ」「山吉兵」「山吉兵へ」と切られ、一枚には「金山吉兵」とある。説明書は「へ」を衛の略と解する。その下の鉄地は一貫している。よく鍛えた鉄を槌目と焼手で仕上げ、焼なましによって鉄骨が処々に隆起し、粒状に、あるいは塊状に、平地にも耳にも現れる。説明書はこれによって雅味があり力強さをさそうとし、鉈文の一枚では粒状や塊状の鉄骨が平地・耳ともに縦横にあらわれて地面は頗る変化に富むとする。菊花形の一枚では鉄錆の色に赤味があり、焼手仕上げと槌目による地鉄の景色は自在の変化に富むとされる。
意匠は少なく、素朴で大胆に透かされる。車透は指定の鐔のうち三枚に見え、説明書は、足利尊氏像と伝える馬上の武将の振りかざす太刀の鐔がそれであることから南北朝期からあったものと思われ、車は仏教上の因縁を示したものであろうかと記す。雁と稲刈鎌は二枚に左右大きく透かされて季節感を表わし、その一枚は「初代山吉兵中の傑作の一つである」[[c:3]]とされる。ほかに櫂と櫓を交叉させた影透、左右段違いに大胆に透かした鉈文、そして菊花があり、菊花は一枚では鐔全体の形として鋤下彫に、一枚では鑢地の透として表される。二枚には阿弥陀鑢がかけられ、一枚には垣根の小透を添える。櫂に櫓透の一枚について説明書は「山吉兵の本領が示された一枚である」[[c:4]]と記す。
耳と櫃の仕立てもまた見どころである。二枚では耳を打返して姿を引き締め、一枚では打返耳そのものに鉄骨があらわれる。大初代の一枚では櫃孔を鉛で地よりも僅かに低く埋め、説明書はこれを尾張埋めと称して珍重されるとする。「山坂吉兵へ」と切る車透の一枚について説明書は、「地透のきりりとした線に戦国というきびしい時代に生まれた鐔という感を強くするのである」[[c:5]]と記す。
説明書は彼を信家よりも法安に並べて読む。山吉は法安と共に尾張鐔を代表し作風にも共通したものがあり、形は堂々とし、「当時流行した打刀拵にかけると一層ひき立って見える鐔である」[[c:6]]と繰り返す。一つの説明は同時代の信家とも作風が相通ずるとする。彼自身の見どころは説明書の挙げるところ、すなわち鉄骨の隆起する槌目と焼手の鉄地、そこに大胆に透かした意匠、そして手強い打返耳である。その鐔の一枚はそのような拵に伝わる。朱色の竪塗の鞘に黒革を平巻にした柄の室町末期の打刀拵で、鐔は後にかけかえたものであるが、説明書は「こうした打刀拵の現存は極めて稀である」[[c:7]]とする。
指定は重要刀装具十件で、鐔九枚と、彼の鐔をかけた拵一点からなり、それより上の指定はない。大名伝来は記録されず、指定時の所持者は国内の個人収集家であり、鉈文の一枚はドイツの収集家の所蔵であった。初代の銘と鉄骨を備えた尾張の鉄鐔が市場に出るのは折にふれてのことであり、なかでも最も古い手の「山坂吉兵」の銘は最も稀である。
山吉兵衛の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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鐔工 · 尾張
現在2点販売中
山吉兵の一門は、本姓を山坂吉兵衛と称し、法安と並んで尾張鐔を代表する鐔工の流派である。元来は織田家の甲冑鍛冶であったとも伝えられ、室町末期の尾張・清洲を拠点として活動を開始した。銘文に「山坂吉兵へ」と姓を略さずに切られたものが最も作風的に古く、元亀頃の作と推定される。以後数代にわたり名跡が継承され、「山吉兵へ」「山吉兵」と略銘を用いる二代目は桃山時代に活躍し、さらに尾州の知名と桜の刻印を添える三代目は寛文から元禄の人である。初代山吉兵については旧来から信家の門人説が流布されているが、説示において「師弟説を立証する文献や作品を実見した事が無い」[[c:5]]と明記され、信家作品との共通性は希薄であり、むしろ法安作品に類似点が多く関連性が強いとされている。 山吉一門の作風は、鉄地の鍛えと仕上げに根差した堂々たる造り込みを特徴とする。形は堂々として鍛えがよく、焼なましによって隆起した鉄骨が処々にあらわれて雅味があり、力強さをさそう。槌目仕立てと焼手仕上げによる地鉄の景色は自在の変化に富み、鉄錆の色に赤味を帯びた独特の肌合いを呈する。装飾技法の核心は阿弥陀鑢であり、とりわけ二代目の阿弥陀鑢は「新古を通じて阿弥陀鑢では山吉兵に比肩するものは無い」[[c:6]]と評される至高の境地に達している。透かしの意匠は素朴な趣を旨とし、代表作として雁鎌透や車透があり、いずれも大胆かつ簡潔な構成をとる。車透図は尾張鐔が得意とする画題であり、法安や信家、金山等にも見られるが、山吉銘にもいくつかの形の車透が伝わる。菊花形や鋤下彫による菊花意匠など、尾張鐔に間々見られる図柄も取り上げている。打返耳は力強く、耳に粒状の鉄骨がしきりにあらわれて野趣を盛り上げ、両櫃孔の鉛埋めは地よりも僅かに低い肉置きで「尾張埋め」と称されて珍重される。説示が繰り返し述べるように、「当時流行した打刀拵にかけると一層引き立ってみえる鐔」[[c:7]]であり、実用と鑑賞の両面において完成された造形を示す。 山吉一門は尾張鉄鐔の伝統において中核的な位置を占める。初代すなわち「大初代」は、御多福木瓜形という当時としては斬新な形体を採用し、変り木瓜形の鉄地に頻りと鉄骨を見せた大胆な大透を施して、戦国というきびしい時代に生まれた鐔の気迫を伝えている。二代目は重なり合った阿弥陀鑢に孤高の美しさを秘め、「この手強い中にある質素な美しさこそが武士道に合通じるもの」[[c:8]]と評される境地を開いた。説示はまた、山吉の作に「甲冑師鐔や刀匠鐔といった古鐔の美を継承した雅味」[[c:9]]を認めており、古来の鉄鐔の伝統を受け継ぎながらも独自の野趣と物深い雅味を確立した一門の芸術的意義を示している。堂々たる姿、鉄骨の力強さ、そして鉄そのものの美を極めた作風は、尾張鐔の精髄として今日も高く評価されている。 詳しく見る →
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