新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
摂州尼崎住藤原国幸 上州之住人中村久兵衛指之 (第22回重要刀剣)日本刀・刀剣購入・販売・買取なら刀剣杉田 | 日本刀・刀剣購入・販売・買取なら刀剣杉田 日本刀の買取歓迎致します。お気軽にお電話ください。TEL:03-3980-1461 営業時間 10:00〜18:00(毎週水曜日・第3火曜日定休) 本造り庵棟 うぶ茎(僅か区送り) 板目肌、杢交じりザングリと肌立ちよく練れ詰む。地沸微塵に厚くつき、細かな地景よく入り、淡く沸映り立つ。刃紋は湾れに互の目乱れ、尖り心の刃交じる。匂いやや深めに沸、小沸よくつく。沸足、葉盛んに働き、金筋、砂流しかかる。匂い口明るく見事に冴える。堀川國廣門人。國廣没後摂州尼崎へ移住。國廣の代作者のせいか、本人の作品少ない。業物。☆☆第22回重要刀剣☆☆
Certificate reading — 銘 摂州尼崎住藤原国幸 上州之住人中村久兵衛指之
















Horikawa school (Kyoto, then Settsu); a later pupil of Horikawa Kunihiro who settled at Amagasaki · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位39%
現在1点販売中
国幸は「摂州尼崎住藤原国幸」[[c:3]]と銘し、生ぶ茎の指表、目釘孔の下、棟寄りに太鏨で切られたその長銘こそ、彼の少ない遺例の出発点である。彼は京の祖・堀川国広の門下の後輩であり、その一門は相州伝の復興を初期江戸へと伝えた。慶長十九年の国広歿後、京を出て摂津尼ヶ崎に移り住んだと考えられ、作の中には尼ヶ崎の地名をさらに細かく柱本と銘したものもある。説明書はこの地名に注意深く、旧来の銘鑑が皆これを誤ったとしたうえで、「柱本が正しく、現在の尼ヶ崎市内の地名である」[[c:4]]と明記する。彼の作は年紀による編年ではなく、どこに銘しどの形態を選んだかによって読むのがよい。年紀作は説明書の引く寛永二年の一口を見るほかにないからである。
彼を最も確かに特定するのは地鉄である。板目に杢を交えて派の手で肌立ち、刃寄りに流れて、説明書が「所謂堀川肌」と呼ぶ粒だった肌となり、地沸がつき、一口の刀には地景が細かに入る。第二十二回の刀はその地を直に名指し、荒いザングリの鍛えが堀川物の特色を備えるとし、同じ肌が作刀群を通じて、多くの作に明記され或いは含意される。これは彼一個の創意ではなく国広ゆずりであって、彼の手を標すと同時に一門の中に置く。説明書が繰り返し「現存する作刀は極めて少く」[[c:5]]と記す工にあって、肌立ったザングリの地こそ拠り所となる。
この地に、刀はのたれを主調として互の目・角がかった小のたれを交え、小沸がよくつき砂流しが細かにかかる。足が入り、匂口は多く沈みごころに落ち着いて、明るく立つよりは沈むが、第二十二回の刀ではむしろ明るく冴えると読まれる。帽子は小丸に、一口は裏に大丸ごころの返り、他には先尖りごころに掃きかけて返りの深いものもある。体配は地味で、鎬造に庵棟、身幅は尋常から広め、重ね厚く、反りは浅めから中ほどで、中鋒は長寸の一口で先につまる。地刃を合わせて、華やかというより堀川物らしい静かで渋い出来口となる。
この僅かな作の中で最も明瞭な分かれ目は形態である。鎬造の刀は右のとおりのたれ調の互の目を焼くが、平造の脇指は同じ手の別の作域をなす。三ツ棟に造り、身幅広く寸延び、重ね厚め、先反りつき、時に踏張りを見せる。早い一口は互の目に大互の目を交え、足入り飛焼入り、匂深く砂流しがかかる。最も新しい第四十四回指定の一口は、中直刃調に僅かにのたれごころをおびた刃に落ち着き、沸ややむらづき、匂口が沈み、刃区を焼き込む。説明書が立ち止まるのはこの脇指で、荒いザングリの鍛えと沈む刃縁が相俟って「堀川物の特色がよく表示されている」[[c:2]]とし、総じて地味ながら渋い味わいを醸す作と評する。
国幸は一派の祖ではない。師は堀川国広であり、系は彼から下るのではなく彼へと至る。門人は伝わらず、彼の位置は京の派が摂津に及んだ末の小工のそれである。第四十四回の説明書が引く『新刀一覧』はその関係を明記し、「摂州住藤原国幸ト切ル」[[c:6]]、時に京に住し、元和・寛永の頃、国広の門人であったとし、現存する作刀から見ても国広一門であることは確実とする。一門への意義は生み出すというより資料的なもので、同じ第四十四回の一口は彼自身の作域を、ひいては国広の派が尼ヶ崎へ及んだことを知る材料として特記される。刃の上で彼を分かつのは華やかな銘振りの一徴ではなく、静かな堀川の出来口の一貫性である。すなわち肌立ったザングリの地、のたれ調の互の目、沈む匂口が、地味で破綻なく仕上げられて一つにまとまる。
六口が重要刀剣に達しており、有銘作の極めて少ない工としては珍しい集中で、この六口が彼の指定の全てであって、国宝・重要文化財・特別重要はない。藤代は上作と評し、堅実な第二の位とする。刀の一口は鑑賞の手懸りを銘自体に負い、裏に上州の注文主中村久兵衛を記すが、説明書は未調と注する。伝来は乏しく、重要の一口が旧家の長く秘した蔵に伝わったと記録される。いずれも国宝として永く社寺に蔵される類ではなく、市に出ることも稀で、これほど少ない工にあって有銘の国幸は、折にふれ稀に、忍耐をもって相見えるもの、著名な名跡というより堀川派の重要の一口である。説明書は彼を誇張も黙殺もせず正しく量り、最も優れた作を、その言葉のとおり「同工の作域を知る上で、資料的にも貴重である」[[c:7]]と判ずる。
國幸の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在79点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後、一週間以内(日本国内のみクーリングオフ可能です)。購入条件と違う瑕疵は商品の返品並びに代金を返還致します。その他海外の場合は、別途ご相談させて頂きます。
¥5,500,000
摂州尼崎住藤原国幸 上州之住人中村久兵衛指之 (第22回重要刀剣)日本刀・刀剣購入・販売・買取なら刀剣杉田 | 日本刀・刀剣購入・販売・買取なら刀剣杉田 日本刀の買取歓迎致します。お気軽にお電話ください。TEL:03-3980-1461 営業時間 10:00〜18:00(毎週水曜日・第3火曜日定休) 本造り庵棟 うぶ茎(僅か区送り) 板目肌、杢交じりザングリと肌立ちよく練れ詰む。地沸微塵に厚くつき、細かな地景よく入り、淡く沸映り立つ。刃紋は湾れに互の目乱れ、尖り心の刃交じる。匂いやや深めに沸、小沸よくつく。沸足、葉盛んに働き、金筋、砂流しかかる。匂い口明るく見事に冴える。堀川國廣門人。國廣没後摂州尼崎へ移住。國廣の代作者のせいか、本人の作品少ない。業物。☆☆第22回重要刀剣☆☆
Certificate reading — 銘 摂州尼崎住藤原国幸 上州之住人中村久兵衛指之
















Horikawa school (Kyoto, then Settsu); a later pupil of Horikawa Kunihiro who settled at Amagasaki · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位39%
現在1点販売中
国幸は「摂州尼崎住藤原国幸」[[c:3]]と銘し、生ぶ茎の指表、目釘孔の下、棟寄りに太鏨で切られたその長銘こそ、彼の少ない遺例の出発点である。彼は京の祖・堀川国広の門下の後輩であり、その一門は相州伝の復興を初期江戸へと伝えた。慶長十九年の国広歿後、京を出て摂津尼ヶ崎に移り住んだと考えられ、作の中には尼ヶ崎の地名をさらに細かく柱本と銘したものもある。説明書はこの地名に注意深く、旧来の銘鑑が皆これを誤ったとしたうえで、「柱本が正しく、現在の尼ヶ崎市内の地名である」[[c:4]]と明記する。彼の作は年紀による編年ではなく、どこに銘しどの形態を選んだかによって読むのがよい。年紀作は説明書の引く寛永二年の一口を見るほかにないからである。
彼を最も確かに特定するのは地鉄である。板目に杢を交えて派の手で肌立ち、刃寄りに流れて、説明書が「所謂堀川肌」と呼ぶ粒だった肌となり、地沸がつき、一口の刀には地景が細かに入る。第二十二回の刀はその地を直に名指し、荒いザングリの鍛えが堀川物の特色を備えるとし、同じ肌が作刀群を通じて、多くの作に明記され或いは含意される。これは彼一個の創意ではなく国広ゆずりであって、彼の手を標すと同時に一門の中に置く。説明書が繰り返し「現存する作刀は極めて少く」[[c:5]]と記す工にあって、肌立ったザングリの地こそ拠り所となる。
この地に、刀はのたれを主調として互の目・角がかった小のたれを交え、小沸がよくつき砂流しが細かにかかる。足が入り、匂口は多く沈みごころに落ち着いて、明るく立つよりは沈むが、第二十二回の刀ではむしろ明るく冴えると読まれる。帽子は小丸に、一口は裏に大丸ごころの返り、他には先尖りごころに掃きかけて返りの深いものもある。体配は地味で、鎬造に庵棟、身幅は尋常から広め、重ね厚く、反りは浅めから中ほどで、中鋒は長寸の一口で先につまる。地刃を合わせて、華やかというより堀川物らしい静かで渋い出来口となる。
この僅かな作の中で最も明瞭な分かれ目は形態である。鎬造の刀は右のとおりのたれ調の互の目を焼くが、平造の脇指は同じ手の別の作域をなす。三ツ棟に造り、身幅広く寸延び、重ね厚め、先反りつき、時に踏張りを見せる。早い一口は互の目に大互の目を交え、足入り飛焼入り、匂深く砂流しがかかる。最も新しい第四十四回指定の一口は、中直刃調に僅かにのたれごころをおびた刃に落ち着き、沸ややむらづき、匂口が沈み、刃区を焼き込む。説明書が立ち止まるのはこの脇指で、荒いザングリの鍛えと沈む刃縁が相俟って「堀川物の特色がよく表示されている」[[c:2]]とし、総じて地味ながら渋い味わいを醸す作と評する。
国幸は一派の祖ではない。師は堀川国広であり、系は彼から下るのではなく彼へと至る。門人は伝わらず、彼の位置は京の派が摂津に及んだ末の小工のそれである。第四十四回の説明書が引く『新刀一覧』はその関係を明記し、「摂州住藤原国幸ト切ル」[[c:6]]、時に京に住し、元和・寛永の頃、国広の門人であったとし、現存する作刀から見ても国広一門であることは確実とする。一門への意義は生み出すというより資料的なもので、同じ第四十四回の一口は彼自身の作域を、ひいては国広の派が尼ヶ崎へ及んだことを知る材料として特記される。刃の上で彼を分かつのは華やかな銘振りの一徴ではなく、静かな堀川の出来口の一貫性である。すなわち肌立ったザングリの地、のたれ調の互の目、沈む匂口が、地味で破綻なく仕上げられて一つにまとまる。
六口が重要刀剣に達しており、有銘作の極めて少ない工としては珍しい集中で、この六口が彼の指定の全てであって、国宝・重要文化財・特別重要はない。藤代は上作と評し、堅実な第二の位とする。刀の一口は鑑賞の手懸りを銘自体に負い、裏に上州の注文主中村久兵衛を記すが、説明書は未調と注する。伝来は乏しく、重要の一口が旧家の長く秘した蔵に伝わったと記録される。いずれも国宝として永く社寺に蔵される類ではなく、市に出ることも稀で、これほど少ない工にあって有銘の国幸は、折にふれ稀に、忍耐をもって相見えるもの、著名な名跡というより堀川派の重要の一口である。説明書は彼を誇張も黙殺もせず正しく量り、最も優れた作を、その言葉のとおり「同工の作域を知る上で、資料的にも貴重である」[[c:7]]と判ずる。
國幸の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在79点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後、一週間以内(日本国内のみクーリングオフ可能です)。購入条件と違う瑕疵は商品の返品並びに代金を返還致します。その他海外の場合は、別途ご相談させて頂きます。
¥5,500,000