国幸は「摂州尼崎住藤原国幸」と銘し、生ぶ茎の指表、目釘孔の下、棟寄りに太鏨で切られたその長銘こそ、彼の少ない遺例の出発点である。彼は京の祖・堀川国広の門下の後輩であり、その一門は相州伝の復興を初期江戸へと伝えた。慶長十九年の国広歿後、京を出て摂津尼ヶ崎に移り住んだと考えられ、作の中には尼ヶ崎の地名をさらに細かく柱本と銘したものもある。説明書はこの地名に注意深く、旧来の銘鑑が皆これを誤ったとしたうえで、「柱本が正しく、現在の尼ヶ崎市内の地名である」と明記する。彼の作は年紀による編年ではなく、どこに銘しどの形態を選んだかによって読むのがよい。年紀作は説明書の引く寛永二年の一口を見るほかにないからである。
彼を最も確かに特定するのは地鉄である。板目に杢を交えて派の手で肌立ち、刃寄りに流れて、説明書が「所謂堀川肌」と呼ぶ粒だった肌となり、地沸がつき、一口の刀には地景が細かに入る。第二十二回の刀はその地を直に名指し、荒いザングリの鍛えが堀川物の特色を備えるとし、同じ肌が作刀群を通じて、多くの作に明記され或いは含意される。これは彼一個の創意ではなく国広ゆずりであって、彼の手を標すと同時に一門の中に置く。説明書が繰り返し「現存する作刀は極めて少く」と記す工にあって、肌立ったザングリの地こそ拠り所となる。
この地に、刀はのたれを主調として互の目・角がかった小のたれを交え、小沸がよくつき砂流しが細かにかかる。足が入り、匂口は多く沈みごころに落ち着いて、明るく立つよりは沈むが、第二十二回の刀ではむしろ明るく冴えると読まれる。帽子は小丸に、一口は裏に大丸ごころの返り、他には先尖りごころに掃きかけて返りの深いものもある。体配は地味で、鎬造に庵棟、身幅は尋常から広め、重ね厚く、反りは浅めから中ほどで、中鋒は長寸の一口で先につまる。地刃を合わせて、華やかというより堀川物らしい静かで渋い出来口となる。
この僅かな作の中で最も明瞭な分かれ目は形態である。鎬造の刀は右のとおりのたれ調の互の目を焼くが、平造の脇指は同じ手の別の作域をなす。三ツ棟に造り、身幅広く寸延び、重ね厚め、先反りつき、時に踏張りを見せる。早い一口は互の目に大互の目を交え、足入り飛焼入り、匂深く砂流しがかかる。最も新しい第四十四回指定の一口は、中直刃調に僅かにのたれごころをおびた刃に落ち着き、沸ややむらづき、匂口が沈み、刃区を焼き込む。説明書が立ち止まるのはこの脇指で、荒いザングリの鍛えと沈む刃縁が相俟って「堀川物の特色がよく表示されている」とし、総じて地味ながら渋い味わいを醸す作と評する。
国幸は一派の祖ではない。師は堀川国広であり、系は彼から下るのではなく彼へと至る。門人は伝わらず、彼の位置は京の派が摂津に及んだ末の小工のそれである。第四十四回の説明書が引く『新刀一覧』はその関係を明記し、「摂州住藤原国幸ト切ル」、時に京に住し、元和・寛永の頃、国広の門人であったとし、現存する作刀から見ても国広一門であることは確実とする。一門への意義は生み出すというより資料的なもので、同じ第四十四回の一口は彼自身の作域を、ひいては国広の派が尼ヶ崎へ及んだことを知る材料として特記される。刃の上で彼を分かつのは華やかな銘振りの一徴ではなく、静かな堀川の出来口の一貫性である。すなわち肌立ったザングリの地、のたれ調の互の目、沈む匂口が、地味で破綻なく仕上げられて一つにまとまる。
六口が重要刀剣に達しており、有銘作の極めて少ない工としては珍しい集中で、この六口が彼の指定の全てであって、国宝・重要文化財・特別重要はない。藤代は上作と評し、堅実な第二の位とする。刀の一口は鑑賞の手懸りを銘自体に負い、裏に上州の注文主中村久兵衛を記すが、説明書は未調と注する。伝来は乏しく、重要の一口が旧家の長く秘した蔵に伝わったと記録される。いずれも国宝として永く社寺に蔵される類ではなく、市に出ることも稀で、これほど少ない工にあって有銘の国幸は、折にふれ稀に、忍耐をもって相見えるもの、著名な名跡というより堀川派の重要の一口である。説明書は彼を誇張も黙殺もせず正しく量り、最も優れた作を、その言葉のとおり「同工の作域を知る上で、資料的にも貴重である」と判ずる。