新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀剣[N.B.T.H.K] Juyo Token No.41 江戸時代前期、山城国の名門堀川一門の高弟、出羽大掾藤原国路の作品。出羽大掾国路は堀川国広門下の高足の一人で、「慶長十八年三月」以降、「同二十年三月」以前の間に出羽大掾を受領したものと思われる。同作には、のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品風の帽子が多いことや、銘字に於いてその初期には一時期「国道」と道の字を用いていたこと、また晩年には「来」を冠しているものがあることなどから、三品家となんらかの関係があったものと推測される。彼の作刀に見る年紀で最も古いものは「慶長十三年」紀であり、降っては「慶安五年」紀で「七十七歳」と行年を添えたものがあり、さらに下限の年紀で「寛文二年」紀があって、承応以降のものを二代とする説も存在する。作風は備前伝以外は各伝を上手にこなしており、国広門下中随一の器用人であり、就中、相州伝が最も得意で志津や左文字などに私淑している。本作は、長寸で刃肉の豊かについた豪壮な体配に、刃文、丁子に互の目・尖りごころの刃を焼き、かつ刃中の足、葉、金筋・砂流しなどの働きが常にも増して華やかに、また沸き立つ霧のごとく不思議な沸が現れるなど、彼が好んで作刀した志津や正宗などの作風ともまた違う独特な作域を示した優品である。(平成29年 小川和比古氏が研磨、同年の刀剣研磨・外装技術発表会において優秀賞を受賞した。)
出羽大掾国路は堀川国広門下の高足の一人で、「慶長十八年三月」以降、「同二十年三月」以前の間に出羽大掾を受領したものと思われる。 同作には、のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品風の帽子が多いことや、銘字に於て、その初期には一時期「国道」と道の字を用いていた こと、また晩年には「来」を冠しているものがあることなどから、 三品家となんらかの関係があったものと推測される。彼の作刀に見る年紀 で最も古いものは「慶長十三年」紀であり、「寛文二年」 紀が最終である。作風は備前伝以外は各伝を上手にこなしており、国広門下中随一の 器用人であり、就中、相州伝が最も得意で志津や左文字などに私淑している。 この刀は、丁子に互の目・尖りごころの刃などを交え、総じて小模様に乱れた出来口を見せており、通常の華やかな作域とはやや趣を異に しているが、流石に地刃がよく働いて、 沸の厚くついた状には、この工の技術の高さが窺われる。また板目に杢が交じり、総体に肌立ってザ ングリとした、いわゆる堀川物特有の肌合に、流れ肌を交えた鍛えや、三品風の帽子には、同工の特色が表示されている。国路の一作風を示 した同作中の優品である。 なお本作には年紀はないが、銘振りから鑑て、おそらく承応・明暦頃の彼の晩年期の作と思われる。この期の国路の作域を知る上で、資料 的にも貴重である。
在銘 · Horikawa · 慶長〜寛文 · 長さ 75.9cm · 反り 1.6cm






出羽大掾国路は堀川国広門下の高足の一人で、「慶長十八年三月」以降、「同二十年三月」以前の間に出羽大掾を受領したものと思われる。 同作には、のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品風の帽子が多いことや、銘字に於て、その初期には一時期「国道」と道の字を用いていた こと、また晩年には「来」を冠しているものがあることなどから、 三品家となんらかの関係があったものと推測される。彼の作刀に見る年紀 で最も古いものは「慶長十三年」紀であり、「寛文二年」 紀が最終である。作風は備前伝以外は各伝を上手にこなしており、国広門下中随一の 器用人であり、就中、相州伝が最も得意で志津や左文字などに私淑している。 この刀は、丁子に互の目・尖りごころの刃などを交え、総じて小模様に乱れた出来口を見せており、通常の華やかな作域とはやや趣を異に しているが、流石に地刃がよく働いて、 沸の厚くついた状には、この工の技術の高さが窺われる。また板目に杢が交じり、総体に肌立ってザ ングリとした、いわゆる堀川物特有の肌合に、流れ肌を交えた鍛えや、三品風の帽子には、同工の特色が表示されている。国路の一作風を示 した同作中の優品である。 なお本作には年紀はないが、銘振りから鑑て、おそらく承応・明暦頃の彼の晩年期の作と思われる。この期の国路の作域を知る上で、資料 的にも貴重である。
Horikawa (Yamashiro / Kyoto) · 山城 · 1615-1624頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在9点販売中
出羽大掾藤原国路は慶長新刀期の京に活躍した堀川国広門下随一の高足で、説明書は彼を一門中最も器用な手とし、「国広門下中随一の器用人」[[c:1]]と称える。その作刀年数は頗る長い。年紀作は慶長十三年(一六〇八)より寛文二年(一六六二)に及び、慶安五年に七十七歳と行年を添えた作があるため、承応以降のものを二代とする説さえ存する。堀川辺の夷川に住したと伝え、剣書には初め三品家の伊賀守金道に学び、後に国広門に入ったと記す。師の没後、慶長十九年乃至元和元年頃、金道の世話で出羽大掾を受領した。
本工の典型は相州伝を写したもので、就中、直江志津の風を第一とする。説明書はその得意とするところに一貫している。備前伝以外は各伝を上手にこなし、「就中相州伝が最も得意で志津や左文字に私淑している」[[c:2]]とする。肌立った板目の地に、のたれ・小のたれを基調として互の目・大互の目を交え、賑やかな大乱れとなり飛焼を交え、匂深く沸厚く時に荒め、砂流し総体にかかり金筋長く入る。説明書はまさにこれらを国路の見どころとし、沸の強く激しくつくこと、華やかに大きく乱れること、砂流し・金筋の働きの豊富なることを挙げる。最も個性的な見どころは帽子にあり、浅くのたれ込んで突き上げ、先尖って掃きかける、「のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品帽子」[[c:3]]である。
地鉄こそ本工の本領である。板目は肌立ち、しばしばザングリと枯れ、杢・流れ肌を交え、刃寄りは柾がかり、地沸つき地景入る、独特の肌合である。これは師国広の悠揚たる地鉄ではなく、より締まって鍛えの利いた地で、説明書は作域の広さでは国広に優るものがあるとしつつ、悠揚たる大きさは流石に師に及ばないと明記する。刃中には見どころとする働きが走り、足よく入り、匂口深く時に明るく冴え、棟焼を交える作もあり、賑やかな作には荒沸やバサケごころを帯びる。
作には二つの相がある。第一にして最も多いのは華やかな志津写しで、大乱れを存分に焼き、帽子は三品風に尖り、表裏に素剣・梵字・護摩箸を彫り、身幅広い平造の脇指には不動や倶利迦羅を彫る。第二はまま見られる焼の低い穏やかな相で、刃文静かに、匂口締りぎみで、刃取り格調高く、時に古作の志津のごとき古色を帯びる。この手のある特別重要刀剣は華やかさが全くなく、地刃ともによく沸えて「あたかも師国広の作に見紛うほどの出来」[[c:4]]と説明書が評するほどで、堀川物の作風を十分に体得していたことを示す。銘は両相を通じて生涯を追い、初期は道の字を用いた「国道」、受領後の典型は「出羽大掾藤原国路」[[c:6]]、晩年は「来」を冠する。この銘の推移は尖った帽子とともに三品家との縁の徴と読まれる。
堀川一門の中で国路を分かつのは一つの特徴ではなく釣合である。国広門下では和泉守国貞とともに一、二を争う多作家とされ、子とも弟子とも伝える国次はよき代作者として受領前に合作の刀に銘を切った。一門の他の名手に対し、彼自身の地刃が彼を際立たせる。肌立ちザングリと枯れた地鉄、堀川の常には見られぬ尖った三品帽子、徹底した志津写しの厚く荒い沸と長い金筋である。説明書はこの作風の最上手を「志津写しの白眉」と称し、最も力強い作を迫力溢れ最右翼に近い一刀と評する。その左文字写しもまた、師国広のそれに比して全くひけを取らぬとされる。
収集の観点では、国路は慶長新刀の名工の中で求めうる主要な名である。一門の優品の多くが伝来して市場に出ぬ中で、なお手の届く存在といえる。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要文化財二口、特別重要刀剣二口と多数の重要刀剣を通じ、特別重要刀剣・重要刀剣の級は併せて六十七口、指定を受けた作は七十四口を数え、京・御霊神社に奉納された長寸の太刀を含む戦前の重要美術品もある。伝来は皇室や旧家に及び、現在は京の御霊神社・八坂神社に蔵されるものや、長く私蔵されてきたものがある。これら上位の級のうち市場に出うるものはごく僅かで、私蔵の指定刀の多くも売られず保たれるが、流通する級の在銘の出羽大掾国路は、辛抱する収集家のもとへ折に触れて訪れる。国広門下随一の器用人による、第一級の京の志津写しである。
國路の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 山城
現在81点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀剣[N.B.T.H.K] Juyo Token No.41 江戸時代前期、山城国の名門堀川一門の高弟、出羽大掾藤原国路の作品。出羽大掾国路は堀川国広門下の高足の一人で、「慶長十八年三月」以降、「同二十年三月」以前の間に出羽大掾を受領したものと思われる。同作には、のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品風の帽子が多いことや、銘字に於いてその初期には一時期「国道」と道の字を用いていたこと、また晩年には「来」を冠しているものがあることなどから、三品家となんらかの関係があったものと推測される。彼の作刀に見る年紀で最も古いものは「慶長十三年」紀であり、降っては「慶安五年」紀で「七十七歳」と行年を添えたものがあり、さらに下限の年紀で「寛文二年」紀があって、承応以降のものを二代とする説も存在する。作風は備前伝以外は各伝を上手にこなしており、国広門下中随一の器用人であり、就中、相州伝が最も得意で志津や左文字などに私淑している。本作は、長寸で刃肉の豊かについた豪壮な体配に、刃文、丁子に互の目・尖りごころの刃を焼き、かつ刃中の足、葉、金筋・砂流しなどの働きが常にも増して華やかに、また沸き立つ霧のごとく不思議な沸が現れるなど、彼が好んで作刀した志津や正宗などの作風ともまた違う独特な作域を示した優品である。(平成29年 小川和比古氏が研磨、同年の刀剣研磨・外装技術発表会において優秀賞を受賞した。)
出羽大掾国路は堀川国広門下の高足の一人で、「慶長十八年三月」以降、「同二十年三月」以前の間に出羽大掾を受領したものと思われる。 同作には、のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品風の帽子が多いことや、銘字に於て、その初期には一時期「国道」と道の字を用いていた こと、また晩年には「来」を冠しているものがあることなどから、 三品家となんらかの関係があったものと推測される。彼の作刀に見る年紀 で最も古いものは「慶長十三年」紀であり、「寛文二年」 紀が最終である。作風は備前伝以外は各伝を上手にこなしており、国広門下中随一の 器用人であり、就中、相州伝が最も得意で志津や左文字などに私淑している。 この刀は、丁子に互の目・尖りごころの刃などを交え、総じて小模様に乱れた出来口を見せており、通常の華やかな作域とはやや趣を異に しているが、流石に地刃がよく働いて、 沸の厚くついた状には、この工の技術の高さが窺われる。また板目に杢が交じり、総体に肌立ってザ ングリとした、いわゆる堀川物特有の肌合に、流れ肌を交えた鍛えや、三品風の帽子には、同工の特色が表示されている。国路の一作風を示 した同作中の優品である。 なお本作には年紀はないが、銘振りから鑑て、おそらく承応・明暦頃の彼の晩年期の作と思われる。この期の国路の作域を知る上で、資料 的にも貴重である。
在銘 · Horikawa · 慶長〜寛文 · 長さ 75.9cm · 反り 1.6cm






出羽大掾国路は堀川国広門下の高足の一人で、「慶長十八年三月」以降、「同二十年三月」以前の間に出羽大掾を受領したものと思われる。 同作には、のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品風の帽子が多いことや、銘字に於て、その初期には一時期「国道」と道の字を用いていた こと、また晩年には「来」を冠しているものがあることなどから、 三品家となんらかの関係があったものと推測される。彼の作刀に見る年紀 で最も古いものは「慶長十三年」紀であり、「寛文二年」 紀が最終である。作風は備前伝以外は各伝を上手にこなしており、国広門下中随一の 器用人であり、就中、相州伝が最も得意で志津や左文字などに私淑している。 この刀は、丁子に互の目・尖りごころの刃などを交え、総じて小模様に乱れた出来口を見せており、通常の華やかな作域とはやや趣を異に しているが、流石に地刃がよく働いて、 沸の厚くついた状には、この工の技術の高さが窺われる。また板目に杢が交じり、総体に肌立ってザ ングリとした、いわゆる堀川物特有の肌合に、流れ肌を交えた鍛えや、三品風の帽子には、同工の特色が表示されている。国路の一作風を示 した同作中の優品である。 なお本作には年紀はないが、銘振りから鑑て、おそらく承応・明暦頃の彼の晩年期の作と思われる。この期の国路の作域を知る上で、資料 的にも貴重である。
Horikawa (Yamashiro / Kyoto) · 山城 · 1615-1624頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在9点販売中
出羽大掾藤原国路は慶長新刀期の京に活躍した堀川国広門下随一の高足で、説明書は彼を一門中最も器用な手とし、「国広門下中随一の器用人」[[c:1]]と称える。その作刀年数は頗る長い。年紀作は慶長十三年(一六〇八)より寛文二年(一六六二)に及び、慶安五年に七十七歳と行年を添えた作があるため、承応以降のものを二代とする説さえ存する。堀川辺の夷川に住したと伝え、剣書には初め三品家の伊賀守金道に学び、後に国広門に入ったと記す。師の没後、慶長十九年乃至元和元年頃、金道の世話で出羽大掾を受領した。
本工の典型は相州伝を写したもので、就中、直江志津の風を第一とする。説明書はその得意とするところに一貫している。備前伝以外は各伝を上手にこなし、「就中相州伝が最も得意で志津や左文字に私淑している」[[c:2]]とする。肌立った板目の地に、のたれ・小のたれを基調として互の目・大互の目を交え、賑やかな大乱れとなり飛焼を交え、匂深く沸厚く時に荒め、砂流し総体にかかり金筋長く入る。説明書はまさにこれらを国路の見どころとし、沸の強く激しくつくこと、華やかに大きく乱れること、砂流し・金筋の働きの豊富なることを挙げる。最も個性的な見どころは帽子にあり、浅くのたれ込んで突き上げ、先尖って掃きかける、「のたれ込んで先の尖った、いわゆる三品帽子」[[c:3]]である。
地鉄こそ本工の本領である。板目は肌立ち、しばしばザングリと枯れ、杢・流れ肌を交え、刃寄りは柾がかり、地沸つき地景入る、独特の肌合である。これは師国広の悠揚たる地鉄ではなく、より締まって鍛えの利いた地で、説明書は作域の広さでは国広に優るものがあるとしつつ、悠揚たる大きさは流石に師に及ばないと明記する。刃中には見どころとする働きが走り、足よく入り、匂口深く時に明るく冴え、棟焼を交える作もあり、賑やかな作には荒沸やバサケごころを帯びる。
作には二つの相がある。第一にして最も多いのは華やかな志津写しで、大乱れを存分に焼き、帽子は三品風に尖り、表裏に素剣・梵字・護摩箸を彫り、身幅広い平造の脇指には不動や倶利迦羅を彫る。第二はまま見られる焼の低い穏やかな相で、刃文静かに、匂口締りぎみで、刃取り格調高く、時に古作の志津のごとき古色を帯びる。この手のある特別重要刀剣は華やかさが全くなく、地刃ともによく沸えて「あたかも師国広の作に見紛うほどの出来」[[c:4]]と説明書が評するほどで、堀川物の作風を十分に体得していたことを示す。銘は両相を通じて生涯を追い、初期は道の字を用いた「国道」、受領後の典型は「出羽大掾藤原国路」[[c:6]]、晩年は「来」を冠する。この銘の推移は尖った帽子とともに三品家との縁の徴と読まれる。
堀川一門の中で国路を分かつのは一つの特徴ではなく釣合である。国広門下では和泉守国貞とともに一、二を争う多作家とされ、子とも弟子とも伝える国次はよき代作者として受領前に合作の刀に銘を切った。一門の他の名手に対し、彼自身の地刃が彼を際立たせる。肌立ちザングリと枯れた地鉄、堀川の常には見られぬ尖った三品帽子、徹底した志津写しの厚く荒い沸と長い金筋である。説明書はこの作風の最上手を「志津写しの白眉」と称し、最も力強い作を迫力溢れ最右翼に近い一刀と評する。その左文字写しもまた、師国広のそれに比して全くひけを取らぬとされる。
収集の観点では、国路は慶長新刀の名工の中で求めうる主要な名である。一門の優品の多くが伝来して市場に出ぬ中で、なお手の届く存在といえる。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要文化財二口、特別重要刀剣二口と多数の重要刀剣を通じ、特別重要刀剣・重要刀剣の級は併せて六十七口、指定を受けた作は七十四口を数え、京・御霊神社に奉納された長寸の太刀を含む戦前の重要美術品もある。伝来は皇室や旧家に及び、現在は京の御霊神社・八坂神社に蔵されるものや、長く私蔵されてきたものがある。これら上位の級のうち市場に出うるものはごく僅かで、私蔵の指定刀の多くも売られず保たれるが、流通する級の在銘の出羽大掾国路は、辛抱する収集家のもとへ折に触れて訪れる。国広門下随一の器用人による、第一級の京の志津写しである。
國路の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 山城
現在81点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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