1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
日本刀 銘 長運斎綱俊 嘉永五年二月日 日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は、嘉永五年(1852年)二月に長運斎綱俊によって打たれた一振りです。 綱俊は寛政十年(1798年)、羽州米沢(現在の山形県)にて和泉守国英の三男として生まれました。本姓は加藤、通称を八郎と称し、加藤綱英の弟にあたります。 綱俊は米沢藩上杉家に仕えた藩工であり、若年期には江戸へ出て、幕末の名工として名高い水心子正秀の門に学び、その卓越した作刀技術を習得しました。 江戸麻布の上杉家屋敷を拠点としながらも、大坂や熊本などで作刀した記録も残されています。 文政六年(1823年)頃に江戸へ定住してからは、多くの秀作を残すとともに自らの門派を形成しました。安政元年(1854年)には「長運斎」の号を拝領。安政三年(1856年)にその号を嫡男の是一(二代綱俊)に譲り、自らは「長寿斎」と号しました。 綱俊の門流は幕末期に大いに繁栄し、固山備前介宗次、高橋長信、石堂運寿是一といった、後世に名を残す錚々たる名工を輩出しています。 綱俊は備前伝を得意とし、華やかな丁子乱れの刃文を焼くことで知られますが、本作においてもその特徴が遺憾なく発揮されています。備前伝の作風においては、師である水心子正秀をも凌ぐと評されるほどです。 文久三年(1863年)十二月、六十六歳で没するまで、江戸の有力な武士たちのために数多くの名刀を打ち続けました。新々刀期を代表する最上作の一人であり、幕末江戸画壇における一大勢力の長として君臨した名工です。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ美術的価値が特に高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 【刀身】 長さ(Nagasa):71.2 cm 反り(Sori):2.2 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造。本作は華やかな乱れを呈しています。 地鉄(Jihada):鍛錬によって現れる鋼の表面模様。 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分。 日本刀の茎には、赤錆を防ぐために意図的に「黒錆」が残されます。この錆色は年月を経て独特の風合いを醸し出し、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装:小道具】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔など、日本刀の外装一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護する一対の金具。 本作の縁頭には鳥の図が施されています。尾長鳥、あるいは四神の一つである「朱雀」を模したものと思われます。尾長鳥は雉や山鳥、鵲などを抽象化した吉祥文様であり、朱雀は南方を司る守護神として尊ばれてきました。 柄・目貫(Tsuka / Menuki): 目貫には龍の図が配されています。四神の「青龍」を想起させる意匠であり、縁頭の朱雀と呼応するような格調高い組み合わせとなっています。



















新々刀 · 武蔵 · 1830-1844頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
現在6点販売中
綱俊は本国出羽米沢の生まれで、本名を加藤八郎といい、長運斎と号した。のち江戸に出て麻布に住し、米沢上杉家の藩工として活躍した。説示には米沢上杉家の藩士であったとも伝え、文久三年、六十三歳ないし六十六歳で没したとある。これら新々刀期を代表する刀工の一人である。
作風は備前伝を主調とし、匂出来の丁子に互の目を交じえた刃文を最も得意とする。ほかに直刃、濤瀾乱もあるが、いずれの場合も鍛は小板目肌が細かにつみ、無地風となって地沸がつくのを常とする。帽子は乱れ込んで小丸に返り、彫物には丸止めの棒樋に添樋、あるいは梵字・倶利迦羅・護摩箸に爪などを伴うものがある。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目は化粧つきの筋違で、指表棟寄りに長銘ないし五字銘を切り、裏に年紀を添えるものが多い。濤瀾風の大互の目を焼いて頻りに玉を焼くものもあり、地鉄は新々刀共通の無地鉄に近い。
評価としては、丁子に互の目を交じえた備前伝の典型的作風を示すものが綱俊の一典型として高く評価される。注文主に対する代金受領書や彫同作の添銘を附帯するもの、大小揃って遺るものなどは、いずれも作者を知る上で好資料とされる。
綱俊の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在78点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 銘 長運斎綱俊 嘉永五年二月日 日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は、嘉永五年(1852年)二月に長運斎綱俊によって打たれた一振りです。 綱俊は寛政十年(1798年)、羽州米沢(現在の山形県)にて和泉守国英の三男として生まれました。本姓は加藤、通称を八郎と称し、加藤綱英の弟にあたります。 綱俊は米沢藩上杉家に仕えた藩工であり、若年期には江戸へ出て、幕末の名工として名高い水心子正秀の門に学び、その卓越した作刀技術を習得しました。 江戸麻布の上杉家屋敷を拠点としながらも、大坂や熊本などで作刀した記録も残されています。 文政六年(1823年)頃に江戸へ定住してからは、多くの秀作を残すとともに自らの門派を形成しました。安政元年(1854年)には「長運斎」の号を拝領。安政三年(1856年)にその号を嫡男の是一(二代綱俊)に譲り、自らは「長寿斎」と号しました。 綱俊の門流は幕末期に大いに繁栄し、固山備前介宗次、高橋長信、石堂運寿是一といった、後世に名を残す錚々たる名工を輩出しています。 綱俊は備前伝を得意とし、華やかな丁子乱れの刃文を焼くことで知られますが、本作においてもその特徴が遺憾なく発揮されています。備前伝の作風においては、師である水心子正秀をも凌ぐと評されるほどです。 文久三年(1863年)十二月、六十六歳で没するまで、江戸の有力な武士たちのために数多くの名刀を打ち続けました。新々刀期を代表する最上作の一人であり、幕末江戸画壇における一大勢力の長として君臨した名工です。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ美術的価値が特に高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 【刀身】 長さ(Nagasa):71.2 cm 反り(Sori):2.2 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造。本作は華やかな乱れを呈しています。 地鉄(Jihada):鍛錬によって現れる鋼の表面模様。 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分。 日本刀の茎には、赤錆を防ぐために意図的に「黒錆」が残されます。この錆色は年月を経て独特の風合いを醸し出し、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装:小道具】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔など、日本刀の外装一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護する一対の金具。 本作の縁頭には鳥の図が施されています。尾長鳥、あるいは四神の一つである「朱雀」を模したものと思われます。尾長鳥は雉や山鳥、鵲などを抽象化した吉祥文様であり、朱雀は南方を司る守護神として尊ばれてきました。 柄・目貫(Tsuka / Menuki): 目貫には龍の図が配されています。四神の「青龍」を想起させる意匠であり、縁頭の朱雀と呼応するような格調高い組み合わせとなっています。



















新々刀 · 武蔵 · 1830-1844頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
現在6点販売中
綱俊は本国出羽米沢の生まれで、本名を加藤八郎といい、長運斎と号した。のち江戸に出て麻布に住し、米沢上杉家の藩工として活躍した。説示には米沢上杉家の藩士であったとも伝え、文久三年、六十三歳ないし六十六歳で没したとある。これら新々刀期を代表する刀工の一人である。
作風は備前伝を主調とし、匂出来の丁子に互の目を交じえた刃文を最も得意とする。ほかに直刃、濤瀾乱もあるが、いずれの場合も鍛は小板目肌が細かにつみ、無地風となって地沸がつくのを常とする。帽子は乱れ込んで小丸に返り、彫物には丸止めの棒樋に添樋、あるいは梵字・倶利迦羅・護摩箸に爪などを伴うものがある。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目は化粧つきの筋違で、指表棟寄りに長銘ないし五字銘を切り、裏に年紀を添えるものが多い。濤瀾風の大互の目を焼いて頻りに玉を焼くものもあり、地鉄は新々刀共通の無地鉄に近い。
評価としては、丁子に互の目を交じえた備前伝の典型的作風を示すものが綱俊の一典型として高く評価される。注文主に対する代金受領書や彫同作の添銘を附帯するもの、大小揃って遺るものなどは、いずれも作者を知る上で好資料とされる。
綱俊の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在78点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.