徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
特別保存刀剣鑑定書付 銘 備中守橘康広 【説明】 本作は、江戸時代前期の寛文年間(1661-1673年)に活躍した名工、備中守橘康広(びっちゅうのかみ たちばな やすひろ)による一振りです。康広は、当時隆盛を極めた紀州石堂および大坂石堂派を代表する刀工として知られています。 【石堂派の系譜】 康広の父である土佐将監橘康廣は、近江国(現在の滋賀県)の出身で、江戸初期の近江石堂派に属していました。石堂派の源流は、備前国(現在の岡山県)の福岡一文字派の末流である助長に遡ります。明応年間(1492-1501年)、助長の一門は時の有力大名・蒲生氏に招聘されて近江国へ移住しました。助長が石堂寺の門前に居を構えたことから、「石堂」の姓を名乗るようになったと伝えられています。 【紀州・大坂石堂派】 江戸時代初期、石堂派の刀工たちはさらなる活躍の場を求め、江戸、大坂、紀州(和歌山県)、筑前(福岡県)の四方へと分かれました。江戸期に各地で繁栄した石堂諸派の根幹は、すべてこの近江石堂にあります。 この流れの中で、康広の父も近江から紀州へと移り住みました。父・康廣は紀州石堂派の祖とされ、同派の礎を築いた重要な人物です。 康広は紀州石堂派の嫡男として生まれ、父より卓越した作刀技術を継承しました。また、徳川家康の十男であり紀州藩の初代藩主となった徳川頼宣に仕え、長年にわたり紀州徳川家の抱え工として腕を振るいました。 その後、明暦三年(1657年)に「備中守」を受領。石堂派の伝統を広めるべく大坂(摂津国)へ移り、大坂石堂派の基盤を確立しました。康広は、江戸初期の大坂石堂派を語る上で欠かせない、最も著名な刀工の一人です。 当時の大坂は城下町として、また経済の中心地として大いに栄えており、多くの刀工が集まりました。彼らは大坂の武士のみならず、全国の諸大名のためにも作刀を行いました。康広はその中でも屈指の名声を得ていた工です。 本作は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に指定されています。これは、保存状態が極めて良好であり、かつ美術的価値が高いと認められた真作の日本刀にのみ与えられる貴重な鑑定書です。 【刀身】 長さ(Nagasa):73.6 cm 反り(Sori):0.9 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃縁に現れる結晶構造の模様 地紋(Jihada):鍛錬による折り返しによって現れる鋼の表面模様 茎(Nakago): 日本刀の柄に収まる中心(なかご)部分です。刀工が意図的に残した黒錆は、柄内部での赤錆の発生を防ぐ役割を果たします。経年による茎の錆色は、専門家が製作年代を特定する上での重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた日本刀の外装一式です。 縁頭(Fuchi-Kashira): 柄の両端を保護する一対の金具です。本作の縁頭には金色の装飾が施されており、柄周りに華やかな印象を与えています。この色調は柄巻の糸とも見事に調和しています。 柄・目貫(Tsuka / Menuki): 柄は日本刀の握り部分であり、目貫はその装飾と目釘の役割を兼ね備えています。


















摂津 · 1684-1688頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在2点販売中
江戸時代
徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
特別保存刀剣鑑定書付 銘 備中守橘康広 【説明】 本作は、江戸時代前期の寛文年間(1661-1673年)に活躍した名工、備中守橘康広(びっちゅうのかみ たちばな やすひろ)による一振りです。康広は、当時隆盛を極めた紀州石堂および大坂石堂派を代表する刀工として知られています。 【石堂派の系譜】 康広の父である土佐将監橘康廣は、近江国(現在の滋賀県)の出身で、江戸初期の近江石堂派に属していました。石堂派の源流は、備前国(現在の岡山県)の福岡一文字派の末流である助長に遡ります。明応年間(1492-1501年)、助長の一門は時の有力大名・蒲生氏に招聘されて近江国へ移住しました。助長が石堂寺の門前に居を構えたことから、「石堂」の姓を名乗るようになったと伝えられています。 【紀州・大坂石堂派】 江戸時代初期、石堂派の刀工たちはさらなる活躍の場を求め、江戸、大坂、紀州(和歌山県)、筑前(福岡県)の四方へと分かれました。江戸期に各地で繁栄した石堂諸派の根幹は、すべてこの近江石堂にあります。 この流れの中で、康広の父も近江から紀州へと移り住みました。父・康廣は紀州石堂派の祖とされ、同派の礎を築いた重要な人物です。 康広は紀州石堂派の嫡男として生まれ、父より卓越した作刀技術を継承しました。また、徳川家康の十男であり紀州藩の初代藩主となった徳川頼宣に仕え、長年にわたり紀州徳川家の抱え工として腕を振るいました。 その後、明暦三年(1657年)に「備中守」を受領。石堂派の伝統を広めるべく大坂(摂津国)へ移り、大坂石堂派の基盤を確立しました。康広は、江戸初期の大坂石堂派を語る上で欠かせない、最も著名な刀工の一人です。 当時の大坂は城下町として、また経済の中心地として大いに栄えており、多くの刀工が集まりました。彼らは大坂の武士のみならず、全国の諸大名のためにも作刀を行いました。康広はその中でも屈指の名声を得ていた工です。 本作は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に指定されています。これは、保存状態が極めて良好であり、かつ美術的価値が高いと認められた真作の日本刀にのみ与えられる貴重な鑑定書です。 【刀身】 長さ(Nagasa):73.6 cm 反り(Sori):0.9 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃縁に現れる結晶構造の模様 地紋(Jihada):鍛錬による折り返しによって現れる鋼の表面模様 茎(Nakago): 日本刀の柄に収まる中心(なかご)部分です。刀工が意図的に残した黒錆は、柄内部での赤錆の発生を防ぐ役割を果たします。経年による茎の錆色は、専門家が製作年代を特定する上での重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた日本刀の外装一式です。 縁頭(Fuchi-Kashira): 柄の両端を保護する一対の金具です。本作の縁頭には金色の装飾が施されており、柄周りに華やかな印象を与えています。この色調は柄巻の糸とも見事に調和しています。 柄・目貫(Tsuka / Menuki): 柄は日本刀の握り部分であり、目貫はその装飾と目釘の役割を兼ね備えています。


















摂津 · 1684-1688頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在2点販売中
江戸時代
徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.