新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣鑑定書付 法橋来国次(入道寿徹) 越前国 【解説】 概要 本作は、越前国(現在の福井県)で活躍した名工、法橋来国次の銘がある一振りです。国次は、同国を代表する名匠、大和守正則の門下で研鑽を積んだ直弟子です。 来国次は山城国(現在の京都府)の出身ですが、時の有力大名である松平家の招聘により越前へと移住しました。正則の門下には、山城大掾国次、和泉守国次、越前大掾国次の三名の高弟がおり、本作の作者である来国次は、越前大掾国次の息子にあたります。 銘文には「入道寿徹」と添えられており、これは作者が仏門に入り、寿徹と号したことを示しています。「徹」の字は経年による摩滅で判読が難しくなっていますが、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により、来国次の真作として鑑定されています。 「入道」とは俗世を離れ仏道に入ることを指し、当時の武士や職人が一定の年齢や節目に際して出家し、法名を名乗ることは珍しくありませんでした。来国次もまた、入道して寿徹と名乗った後も、作刀活動を続けていたと考えられます。 師:大和守正則について 大和守正則は、丹後国宮津(現在の京都府北部)に生まれ、江戸時代初期(慶長13年〜慶安4年:1608-1651年頃)に活躍しました。正則は室町時代の名門、山城国三条吉則の末裔と伝えられています。父である則光より作刀の基礎を学んだ後、京都へと移りました。 その後、徳川家康の三男であり、越前北ノ庄藩主であった結城秀康に見出され、松平家の抱え工として越前へ下向しました。秀康の嫡男である松平忠直にも仕え、その卓越した技量から「大和守」を受領しています。門下である国次もまた、師である正則からその高度な技術を継承したものと思われます。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「特別保存刀剣」に指定されています。これは真作であることはもちろん、保存状態が極めて良好であり、かつ美術的価値が高い名品であることを証明するものです。 ※刀身には数箇所の鍛え傷および極小の毀れ(こぼれ)が見受けられます。詳細な状態につきましては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身諸元】 長さ(Nagasa):70.3 cm 反り(Sori):1.5 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地紋(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):柄に収まる茎の部分 日本の刀工は、赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この茎の錆色は長い年月を経て形成されるものであり、専門家が製作年代を特定する際の重要な指標となります。 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた外装一式 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられる一対の金具


























新刀 · 越前 · 1615-1624頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位49%
現在3点販売中
越前大掾藤原国次は、平成十二年の第四十六回重要刀剣に指定された在銘の脇指によって知られる。説明は「越前大掾国次は、信濃大掾忠国(初代)と共に、出羽大掾国路門下の高足の一人である」とし、寛永十一年紀で「於武州江戸」と切った平安城藤原国次銘の刀から、その活躍年代と、比較的若い頃に一時江戸で駐鎚したことを推している。また越前守藤原国次銘で裏に「於熊本以南蛮鉄」と切った作があり、後に熊本でも駐鎚したことが知られる。
『古今鍛冶備考』は「老後は肥州之産法橋来国次入道寿徹と打、於肥後とも打つなり、寛文頃、或は寿徹は別人とも云」[[c:1]]と記すが、説明は寿徹銘と常々の越前大掾国次銘の「国次」二字銘が全く同調であることから同人と判断し、寿徹銘を晩年期の作と推す。さらに「師国路の晩年には、その代作・代銘に任じていたと思われる」[[c:2]]とする。
この脇指は平造、庵棟、身幅一段と広く、寸延び、反り浅くつく慶長新刀の姿で、鍛えは板目に杢・流れ肌交じり、肌立ってザングリとした堀川物独特の肌合となり、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入る。刃文は焼幅広めに、小のたれに互の目・大互の目・角がかった刃など交じり、足入り、匂深く、沸厚くつき、処々荒めの沸を交え、総体に砂流しかかり、さかんに金筋・沸筋入り、上半棟を焼き、匂口沈みごころとなる。表裏に二筋樋を掻き流し、説明は姿・地刃に至るまで正に師国路宛らの出来映えとする。
説明は「大模様で華やかな志津風のこの手の作域は、国次にはあまり経眠しないが」[[c:3]]、本作の如き作例により国路の代作を行っていたことがより強く首肯されるとし、出来が優れ、大柄な体配と相俟って迫力が感ぜられると評する。そして「加えて国次の作風を研究する上で、資料的にも貴重である」[[c:4]]と結んでいる。
國次の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在64点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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