大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
Q510. Suriage katana by Tsuda Sukenao. Nagasa: 26 3/8″ 67 cm. Sori: 1.2 cm. Moto haba: 3 cm. Moto kasane: .7 cm. Saki haba: 2 cm. Saki kasane: .5 cm. Nakago nagasa: 8 1/16″ 20.7 cm. Overall in shirasaya: 36 3/4″ 93 cm. Koshi zori, iore mune, chu kissaki. The hada is ko-itame, itame in bright ji nie, and masame in the shinogi ji. The hamon is a bright and consistent nioi guchi covered in ko-nie: toranba, gunome midare, and shallow notare with sunagashi, a bit of kinsuji & hotsure, and a few yo (isolated hardened areas above the hamon). The boshi is undulating with strong hakkekake (swept) and a long kaeri. There is one tight running masame in the shinogi ji just above mid point of the omote. I don’t consider this to be a defect but someone else might so I mention it. Otherwise, the blade is flawless and my lousy pictures don’t do it justice. The sword is in polish and mounted in well made shirasaya in excellent condition and with a beautiful gold foil habaki, also in fine condition. This sword comes with 3 papers. The earliest was issued by Fujishiro Yoshio (author of Nihon Toko Jiten) in 1943. There is another Fujishiro paper, issued by the son of Yoshio in 1998. And last, there is a Tokubetsu Kicho paper from the NBTHK, dated 1976. Omi no Kami Sukenao was born in 1639 and he worked until 1693. He was a top student of Echizen no Kami (Tsuda) Sukehiro, one of the most important of all smiths in Shinto times. Sukenao married Sukehiro’s younger sister and thus became family. He was granted the Omi no Kami title in 1669 or early in 1670; we know this sword was made then or later. Sukenao was a significant swordsmith who made high quality swords, some of which have passed to Juyo Token or better. Were this sword ubu (unshortened), my price would be much higher; for Sukenao, this is a bargain. 2 pounds, 10 ounces.









Tsuda Sukehiro line, Osaka Shinto (Settsu / Omi) · 摂津 · 1668-1693頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位14%
現在7点販売中
助直は寛永十六年(一六三九)近江国野洲郡高木に生まれ、通称を孫太郎、また孫太夫と伝え、その年紀作は寛文八年(一六六八)より、五十五歳を迎えた元禄六年(一六九三)に及ぶ。説明書は、初め初代そぼろ助広の門に入り、のち二代津田越前守助広の指導を受けて大成したこと、助広の妹婿となって津田姓を冠したこと、天和二年(一六八二)の師の歿後は後継者として大坂に常住したことを記す。延宝年中の作には「高木住」と銘したものが多く、成業の後一時生国高木に帰ったものと説明書は見る。津田門の中でその手は最も師に近く、最晩年の特別重要刀剣について説明書は「師の助広と区別し難いほどの上出来」[[c:1]]とし、円熟した技術を見せるものとする。
助直の聞こえる作風は濤瀾乱れで、説明書はこれを師助広の創始したものとし、助直はよくこれを継承したとする。元を直ぐに焼き出し、その上に大互の目に丁子・小のたれを交えて波となし、足長く入り、匂深く、小沸厚くつき、砂流し・金筋細かにかかり、時に飛焼を交える。説明書は作ごとにほぼ同じ言葉で、匂が深く、小沸がよくつき、匂口が明るく冴える作柄が通例であり、「中には助広に迫る作もある」[[c:2]]と記す。
地鉄は小板目がよくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入って、かねが冴える。最上の作では殆ど梨子地となる。円熟期の特別重要刀剣はまさにこの鍛えに、互の目を交えた濤瀾乱れを焼き、匂口深く小沸厚くつき、金筋・砂流し細かにかかり、説明書は「地刃に助直の特色と美点が十二分に示されている」[[c:3]]と結ぶ。帽子は各作直ぐに小丸、僅かに返り、時に先掃きかける。
濤瀾の傍らに、説明書は別の作域を挙げる。一つは互の目乱れとのたれで、大互の目が波に上がりきらないもの。一つは穏やかな直刃、また広直刃で、濤瀾を以て聞こえながらこれを巧みにこなした。延宝三年、なお高木にあって鍛えた刀は広直刃を焼き、説明書はおだやかとしつつ「流石に堂々たる出来である」[[c:4]]と添える。ある年紀の脇指については、濤瀾のほか「他にこの脇指の如く直刃も巧みにこなしている」[[c:5]]と記す。刀身の彫は棒樋に留まり、貞享三年紀の一口にみる倶利迦羅・旗鉾は、切付銘によって長坂遊鵬軒の手になることが知られる。
師との差についても説明書は明らかに記す。その刀は身幅が広い傾向があり、ある特別重要刀剣は典型作として「姿は助広より幅があり堂々とした体配」[[c:6]]とされ、匂口深く師の上作に迫るという。その濤瀾刃は助広に比べ刃先に砂流しがかかり、「やや荒目の沸がつくものがある」[[c:7]]。本間による御物台帳に所載の二口は、この評価の両面を示す。元禄三年、五十二歳の刀は同作中の傑作として「殆ど師父助広の域に迫る」[[c:8]]とされる。一方、延宝五年紀で高木住と切り「以地鉄落作之」と添銘する脇指は、師同様に直刃も得意としたことを示すが、本間は「地がねのよさは到底師に及ばない」[[c:9]]と付記する。
助直は藤代が上々作とし、大坂新刀の主要な名跡に数えられる。国宝・重要文化財はない。その記録は現代の級を通じ、特別重要刀剣四口、重要刀剣五十九口、両級併せて六十三口に及び、すべて在銘で、年紀あるものも多い。来歴の知られるものは僅かで、松平家に伝わった一口と、信州松本藩士の旧蔵の一口がある。その格の指定刀の多くは伝えられて売り立てられることが少なく、在銘年紀の助直が市に現れるのは折にふれてのことであり、濤瀾乱れの見事な刀はその折にいよいよ求められる。津田助広に最も近づいた門人の作である。
助直の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 摂津
現在25点販売中
助広一門は、摂津国大坂に拠って江戸時代前期に活躍した新刀の一系であり、その名は初代そぼろ助広に始まる。初代助広は、もと播磨国国衙庄津田の数打工であったと伝わり、後に大坂へ出て初代河内守国助の門に学んだ。国助はもと石堂派の出身であり、初代助広が丁子乱れを得意として匂口締まりごころに小沸をつけ、足・葉を交えた一見石堂風の作柄を示すのも、この師系に由来する。切り添えられた「そほろ」の銘によりそぼろ助広とも通称され、寛文三年に歿した。その二代を継いだのが津田越前守助広である。越前守助広は寛永十四年に摂州打出村に生まれ、通称を甚之丞といい、初代の門に学んでその歿後に二代目を襲い、明暦三年に越前守を受領し、寛文七年には大坂城代青山因幡守宗俊に召し抱えられ、天和二年に四十六歳で歿した。門人には近江国高木に生まれて二代助広に学び、後にその妹婿になったと伝える津田近江守助直があり、いずれも寛文・延宝を中心とする大坂新刀の中核を成した。 本一門の作風は、大坂鍛えに特有の精緻な地鉄と、明るく深い匂口を共通の身上とする。鍛えは小板目肌がよくつんで些かの緩みもなく、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、かねが冴える。刃文は元を直ぐに焼き出す大坂焼出しを置き、その上に二代助広が創始した濤瀾乱れを焼くのを特色とする。濤瀾は大互の目に互の目・小のたれを交えて大きくうねる独特の刃文で、足太く入り、匂深く小沸厚くつき、金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴える。二代助広は初期に石堂風の丁子乱れを焼き、ついで互の目乱れを経て濤瀾へと至り一世を風靡したが、直刃もまた頗る巧みで、同地大坂の井上真改と双璧と称された。助広の直刃は浅く五つにのたれを帯び、横手下から焼幅を広める手癖を示し、沸の粒が真改より細かく、刃縁が奉書紙を裂いたように地へ向かって細かに働く点が見どころとされる。門人助直は師の濤瀾をよく継承しつつ、互の目乱れやのたれ・直刃にも作域を広げ、中には師に迫る出来を見せた。茎には入山形の茎尻に大筋違や筋違の鑢に香包の化粧鑢を施し、角津田・丸津田の銘を切る点も一門を分かつ手掛かりとなる。 助広が古来重んじられてきたのは、濤瀾という新刀屈指の華やかな刃文を創始し、かつ直刃にも比類なき冴えを示した両面の妙によるところが大きい。鑑定にあたっては、精緻によくつんだ小板目肌、微塵に厚くつく地沸、深く明るい匂口、そして大坂焼出しから立ち上がる濤瀾の態を要点とする。代表作には、大坂城代青山宗俊の命により助広四十二歳の時に鵜首造の異風な姿で鍛え、雨乞いの願いを込めて倶利迦羅と梵字を彫った延宝六年紀の大太刀「村雨」があり、青山家に代々秘蔵された。その濃密な彫物は助広自身彫ではなく、当時大坂で活躍した彫師長坂遊鵬軒の手になるものと推され、同様の彫例は助直や一竿子忠綱・伊勢守国輝らの作にもうかがえる。さらに井上真改との合作の脇指も知られ、茎仕立てから鑢目、銘字に至るまで助広の主座が看取され、大坂新刀を代表する両雄の協同を伝える資料として価値が高い。門人助直の天和年紀の濤瀾の傑作とともに、これらの優品は、大坂新刀の到達点を今に示すものである。 詳しく見る →
大坂 町人の都の刀
大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、現在の日刀保ではほとんど認められていません。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)に再提出し、現行の鑑定を受けることもご検討ください。
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