助直は寛永十六年(一六三九)近江国野洲郡高木に生まれ、通称を孫太郎といい、その年紀作は寛文八年(一六六八)より、五十五歳を迎えた元禄六年(一六九三)に及ぶ。説明書は、初め初代そぼろ助広の門に入り、のち二代津田越前守助広の指導を受けて大成したこと、助広の妹婿となって銘に津田姓を冠したこと、天和二年(一六八二)の師の歿後はその後を襲って大坂に常住したことを記す。銘は津田近江守助直、近江守高木住助直、また単に助直と幾通りかに定まり、しばしば元禄あるいは天和の年紀と生国の江州高木を添える。津田門の中でその手は最も師に近く、最晩年の特別重要刀剣についての説明書は、これを「師の助広と区別し難いほどの上出来」とし、円熟した技術を見せるものとする。
助直の聞こえる作風は濤瀾乱れで、説明書はこの大きく波打つ刃を、創始した師助広より継承したものとする。刃は元を直ぐの焼出しに起こす大坂新刀の起こしより、大互の目に丁子・小のたれを交えた本体を立てて波となし、長く足入り、匂極めて深く、小沸厚くつき、砂流しと細かな金筋がかかり、時に線上に飛焼を交える。匂口は明るく冴え、この深く澄んで小沸のよくついた冴えこそ、判者が助広に迫ると読むところである。差を見せるのは姿で、その刀は身幅広く重ね厚く、中鋒をやや延ばした、師よりも頑健で堂々たる体配となり、波が助広に迫ってもなお姿は自身のものである。
地鉄はそのすべての作に通う恒のところである。よくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき、地景の入る、かねの冴えた地で、波を置く明るい大坂の地である。最上手の作について説明書は、地刃ともに厚く沸づいて明るく冴えると評し、ある特別重要刀剣はまさにこの語で称えられて、鍛えは小板目つみ地沸微塵に厚くつき地景細かに入り、その全体を「地刃に助直の特色と美点が十二分に示されている」とする。帽子は各作直ぐに小丸、僅かに返り、時に掃きかけを伴って、最も働く刃をも静かに納める。
総体の濤瀾の傍らに、説明書は二つの作域を挙げ、その作風は一にして三つの面に読まれる。一つは互の目乱れとのたれで、大互の目が波に上がりきらず小のたれや時に尖りごころを交え、匂深く小沸のよくつくもの。一つは穏やかな直刃、時に広直刃で、波を以て聞こえながらもこれを巧みにこなした。延宝三年の、なお故郷高木にあって鍛えた一口は、流れごころのある広い直刃に焼出しの小互の目を交え、説明書はおだやかとしつつ「流石に堂々たる出来である」と添える。ある年紀の脇指について判者は、本工が「他にこの脇指の如く直刃も巧みにこなしている」と記す。刀身の彫は棒樋に留まり、その作にみる倶利迦羅・旗鉾は長坂遊鵬軒ら彫物師の手になり、本工自身の手ではない。
津田門の中で助直を分かつのは、自身の姿に抑えられた、師への近さの著しさである。説明書は繰り返しその最上手の作を師に迫るものと読み、ある特別重要刀剣を「一見師助広を髣髴とさせる助直の秀作」とし、一方で身幅が師より広く堂々たる体配であることを記す。すなわち本工は、新機軸の工というより、助広の早世の後に濤瀾乱れを忠実に継いだ正嫡であり、匂口の明るさと姿の頑健さこそ、その手を継いだ源より分かつ徴である。濤瀾の波、互の目ののたれ、穏やかな直刃という三つの作域は、説明書自身による本工の作の区分であり、そのいずれにも上手とされる。
助直は藤代が上々作とし、大坂新刀の主要な名跡に数えられる。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は現代のより高い級を通じ、特別重要刀剣に四口、より多くを重要刀剣に置き、両級併せて六十三口に及び、その殆どが在銘で年紀のあるものも多い。来歴の知られるものは僅かで、なかに皇室の御物であった一口、松平親懷の家に伝わった一口があり、他は所伝詳らかでない。世に出る数が少なく、その格の指定刀の多くが伝えられて売り立てられぬ中、在銘年紀の助直が市に現れるのは折にふれてのことであり、濤瀾乱れの見事な刀はその折にいよいよ求められる。身幅広く匂口の明るい私蔵の一口は、収集家にとって出会うべき佳品であり、津田助広に最も近づいた門人の作である。