南朝が大和国吉野に都を置いたとき、大和の諸派は最盛期にあった。包永以後の手掻、尻懸則長、そして保昌の純然たる柾目である。その技はすでに諸国へ広がりつつあった。
K83. Mumei tanto in koshirae.Nagasa: 11 3/4′′ 29.8 cm.Sori: .5 cm.Moto haba: 3.4 cm.Moto kasane: .55 cm.Nakago nagasa: 3 7/8′′ 9.8 cm.Overall length in koshirae: 19 1/4′′ 49 cm.Hira-zukuri, mitsu mune (3 sided), the hori-mono is a riitual ken on the omote and gomabashi-hi with a bonji on the ura. There are 3 holes in the nakago, 2 of them are connected, and one of the 2 and the single ana are plugged with silver. The hada is ko-itame. The hamon is suguba with shallow undulations, a bright and consistent nioi-guchi covered in fine ko-nie. On each side there is an instance of koiguchigaiba (see the pictures with white x), there is sunagashi, and the hamon becomes nijuba (double) above the koiguchigaiba and lower down on the omote. The strongly swept (kakkikake) boshi is chu-maru with a hint of jizo, followed by a medium long kaeri. The blade is, with the exception of one tiny pit, flawless and in polish (no stains, corrosion, or scratches and it isn’t tired). The habaki is brass.The koshirae is aikuchi (without tsuba). The saya is black lacquer (a few tiny dings; otherwise flawless) and mounted with a horn kurigata & koi guchi and a silver kojiri which appears to have a small cross (hidden Christian?) included. There is a sleeve for kotsuka/kogatana but they are missing. The tsuka is wrapped with leather, the fuchi is horn to match the koi guchi, and the kashira is copper with Kanji at either corner and a tiny #25 stamped above one of the Kanji (no idea what that’s about). The menuki are habachi (I believe) with gold and silver inlay. There is a shallow cut across the tsuka-ito; otherwise everything is in great condition and all fits together fine. The blade will come in a silk? brocade bag.Koiguchigaiba is the classic tell for Yamato Tegai. I think the sugata, amount the blade has been polished down, and the surface on the nakago are consistent with Nambokucho work. If I was giving this tanto a paper it would say 2nd or 3rd generation of one of the mainline Tegai smiths









大和伝 · 大和
現在29点販売中
手掻派は、大和五派の一として奈良に興った刀工の一門である。東大寺の西の正門である転害門の外辺に居住し、東大寺に隷属していた鍛冶の集団と推察され、寺の門の名がそのまま一派の称となった。手掻とも転害とも書く。その祖と伝えられるのが包永で、銘鑑は活躍を鎌倉時代後期の正応頃(一二八八〜九三)とするが、初代の在銘作に年紀はなく、子とも弟子とも伝える包清に嘉暦四年(一三二九)紀の短刀が遺ること、また作域・造込みからして更に時代の遡るとの見解も繰り返し示され、活躍期は鎌倉時代中期から末期にかけてと読まれる。以後、包永の名は数代に継承され、包清・包俊・包次ら同族の工が南北朝から室町に亘って栄えた。大和五派の中で手掻は最も規模が大きく、室町期には他派を吸収したかのごとくこの派のみが存続したとされる。寺社に隷属した工房を母胎とする出自は、その実用本位の造込みと抑制された焼刃の根にあって、一門の作風を貫いている。 一派に通う語法は、まず地鉄に読まれる。鍛えは板目に杢・流れ肌を交え、刃寄りは流れて柾がかり、しばしば肌立ちごころとなって、奈良の手掻に置く構造的な見どころを示す。その上に地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、鉄がよく冴える。この柾の目立つ板目こそ、大和五派に共通する第一の標識である。焼かれる刃は直刃を基調とし、浅くのたれて小互の目・小乱れを交え、決して華やかな大模様には出ない。刃縁にはほつれ・打のけ・喰違刃・二重刃がかかり、湯走りが地にこぼれ、金筋・砂流しが走って、刃中にもまた柾が通う。帽子は先を掃きかけて返りの少ない焼詰め風となり、あるいは小丸に浅く返る。これらは大和物に共通する働きであるが、手掻が他の四派と分かれるのは沸の質においてである。包永の作は大和物の中でも最も沸の強いもので、つぶらで輝きのある美しい沸がつき、匂口は明るく地刃ともによく冴える。この明るく強い沸が、鎌倉後期の古手掻を貫く核である。代を降ると地は白けごころとなり、棟寄りに白け映りが立ち、匂口は締まって小沸ごころとなる。包清・包俊・包次らの応永頃の短刀がこの末手掻の典型を示し、なお末期に至れば、享禄頃の包清の刀のごとく直刃が大互の目の皆焼へと転じ、千子村正に近い作域を見せるに至る。古手掻の明るく強い沸から、末手掻の白けて締まった刃へ、一門の弧はこのように降る。 鑑定の勘所は、まずこの柾の目立つ地鉄と、掃きかけ・焼詰めの帽子の下に喰違刃・二重刃と働く直刃にある。同じ大和の中でも、来の詰んだ小板目に整って流れる直刃とは地が分かれ、古備前の丁子に映りを伴う乱れとも分かれる。大和の内部では、千手院・尻懸則長・当麻・保昌と並び称されるが、その分かれ目は手掻自身の特色に沿う。包永は浅くのたれる直刃調を保って小互の目が連れて連なることはなく、湯走り・打のけ・二重刃が刃縁の上に自在に働き、保昌の無地の直刃よりほつれと二重刃に富み、尻懸の連れた小互の目とも異なる。祖包永の格は一門の頂にあり、太刀姿は凛然として格調の高いものが多く、その沸は粟田口久国や相州上工に比し得るものと評されてきた。在銘の太刀は古作としては異例に多く、その殆どが茎先に二字銘を遺す磨上の状態のもので、「包」の字が竪づまりとなり、「永」の字の第二画の竪棒を極端に長く引くところが銘字の見どころとされる。伝来も深く、徳川将軍家から諸大名へ拝領された太刀があり、本多忠勝の孫忠刻の所持銘を残す一口、堀尾家を経て勢州石川家に伝来した折返銘の刀など、来歴を伝える作が多い。包清・包俊・包次ら後代の工は、大磨上無銘の極めを通じて世に伝わるものが多く、在銘・年紀の作はそれ自体が稀少にして、最も規模の大きな大和の一派の作域を知る定点として貴ばれている。 詳しく見る →
南朝が大和国吉野に都を置いたとき、大和の諸派は最盛期にあった。包永以後の手掻、尻懸則長、そして保昌の純然たる柾目である。その技はすでに諸国へ広がりつつあった。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
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K83. Mumei tanto in koshirae.Nagasa: 11 3/4′′ 29.8 cm.Sori: .5 cm.Moto haba: 3.4 cm.Moto kasane: .55 cm.Nakago nagasa: 3 7/8′′ 9.8 cm.Overall length in koshirae: 19 1/4′′ 49 cm.Hira-zukuri, mitsu mune (3 sided), the hori-mono is a riitual ken on the omote and gomabashi-hi with a bonji on the ura. There are 3 holes in the nakago, 2 of them are connected, and one of the 2 and the single ana are plugged with silver. The hada is ko-itame. The hamon is suguba with shallow undulations, a bright and consistent nioi-guchi covered in fine ko-nie. On each side there is an instance of koiguchigaiba (see the pictures with white x), there is sunagashi, and the hamon becomes nijuba (double) above the koiguchigaiba and lower down on the omote. The strongly swept (kakkikake) boshi is chu-maru with a hint of jizo, followed by a medium long kaeri. The blade is, with the exception of one tiny pit, flawless and in polish (no stains, corrosion, or scratches and it isn’t tired). The habaki is brass.The koshirae is aikuchi (without tsuba). The saya is black lacquer (a few tiny dings; otherwise flawless) and mounted with a horn kurigata & koi guchi and a silver kojiri which appears to have a small cross (hidden Christian?) included. There is a sleeve for kotsuka/kogatana but they are missing. The tsuka is wrapped with leather, the fuchi is horn to match the koi guchi, and the kashira is copper with Kanji at either corner and a tiny #25 stamped above one of the Kanji (no idea what that’s about). The menuki are habachi (I believe) with gold and silver inlay. There is a shallow cut across the tsuka-ito; otherwise everything is in great condition and all fits together fine. The blade will come in a silk? brocade bag.Koiguchigaiba is the classic tell for Yamato Tegai. I think the sugata, amount the blade has been polished down, and the surface on the nakago are consistent with Nambokucho work. If I was giving this tanto a paper it would say 2nd or 3rd generation of one of the mainline Tegai smiths









大和伝 · 大和
現在29点販売中
手掻派は、大和五派の一として奈良に興った刀工の一門である。東大寺の西の正門である転害門の外辺に居住し、東大寺に隷属していた鍛冶の集団と推察され、寺の門の名がそのまま一派の称となった。手掻とも転害とも書く。その祖と伝えられるのが包永で、銘鑑は活躍を鎌倉時代後期の正応頃(一二八八〜九三)とするが、初代の在銘作に年紀はなく、子とも弟子とも伝える包清に嘉暦四年(一三二九)紀の短刀が遺ること、また作域・造込みからして更に時代の遡るとの見解も繰り返し示され、活躍期は鎌倉時代中期から末期にかけてと読まれる。以後、包永の名は数代に継承され、包清・包俊・包次ら同族の工が南北朝から室町に亘って栄えた。大和五派の中で手掻は最も規模が大きく、室町期には他派を吸収したかのごとくこの派のみが存続したとされる。寺社に隷属した工房を母胎とする出自は、その実用本位の造込みと抑制された焼刃の根にあって、一門の作風を貫いている。 一派に通う語法は、まず地鉄に読まれる。鍛えは板目に杢・流れ肌を交え、刃寄りは流れて柾がかり、しばしば肌立ちごころとなって、奈良の手掻に置く構造的な見どころを示す。その上に地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、鉄がよく冴える。この柾の目立つ板目こそ、大和五派に共通する第一の標識である。焼かれる刃は直刃を基調とし、浅くのたれて小互の目・小乱れを交え、決して華やかな大模様には出ない。刃縁にはほつれ・打のけ・喰違刃・二重刃がかかり、湯走りが地にこぼれ、金筋・砂流しが走って、刃中にもまた柾が通う。帽子は先を掃きかけて返りの少ない焼詰め風となり、あるいは小丸に浅く返る。これらは大和物に共通する働きであるが、手掻が他の四派と分かれるのは沸の質においてである。包永の作は大和物の中でも最も沸の強いもので、つぶらで輝きのある美しい沸がつき、匂口は明るく地刃ともによく冴える。この明るく強い沸が、鎌倉後期の古手掻を貫く核である。代を降ると地は白けごころとなり、棟寄りに白け映りが立ち、匂口は締まって小沸ごころとなる。包清・包俊・包次らの応永頃の短刀がこの末手掻の典型を示し、なお末期に至れば、享禄頃の包清の刀のごとく直刃が大互の目の皆焼へと転じ、千子村正に近い作域を見せるに至る。古手掻の明るく強い沸から、末手掻の白けて締まった刃へ、一門の弧はこのように降る。 鑑定の勘所は、まずこの柾の目立つ地鉄と、掃きかけ・焼詰めの帽子の下に喰違刃・二重刃と働く直刃にある。同じ大和の中でも、来の詰んだ小板目に整って流れる直刃とは地が分かれ、古備前の丁子に映りを伴う乱れとも分かれる。大和の内部では、千手院・尻懸則長・当麻・保昌と並び称されるが、その分かれ目は手掻自身の特色に沿う。包永は浅くのたれる直刃調を保って小互の目が連れて連なることはなく、湯走り・打のけ・二重刃が刃縁の上に自在に働き、保昌の無地の直刃よりほつれと二重刃に富み、尻懸の連れた小互の目とも異なる。祖包永の格は一門の頂にあり、太刀姿は凛然として格調の高いものが多く、その沸は粟田口久国や相州上工に比し得るものと評されてきた。在銘の太刀は古作としては異例に多く、その殆どが茎先に二字銘を遺す磨上の状態のもので、「包」の字が竪づまりとなり、「永」の字の第二画の竪棒を極端に長く引くところが銘字の見どころとされる。伝来も深く、徳川将軍家から諸大名へ拝領された太刀があり、本多忠勝の孫忠刻の所持銘を残す一口、堀尾家を経て勢州石川家に伝来した折返銘の刀など、来歴を伝える作が多い。包清・包俊・包次ら後代の工は、大磨上無銘の極めを通じて世に伝わるものが多く、在銘・年紀の作はそれ自体が稀少にして、最も規模の大きな大和の一派の作域を知る定点として貴ばれている。 詳しく見る →
南朝が大和国吉野に都を置いたとき、大和の諸派は最盛期にあった。包永以後の手掻、尻懸則長、そして保昌の純然たる柾目である。その技はすでに諸国へ広がりつつあった。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
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