日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 (葵紋)康継入道南蛮鉄(二代) 於越州作之, 491 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 康継二代は初代の嫡子で名を市之亟という。初代は慶長年間に主君結城秀康の父徳川家康の御前で妙技を披露し、感服した家康から康の一字を授かり、さらに葵紋を茎に刻することを許され、江戸と越前と往還して鍛刀している。康継二代は江戸で育ち、一子相伝の南蛮鉄の熟しと鍛えの秘術を会得。寛永十七年八月には三代将軍家光の出雲日御碕神社への奉納太刀を鍛造するなど、将軍家お抱え刀工の重責を担った。


Echizen Shimosaka (Yasutsugu line, Echizen / Edo) · 武蔵 · 1624-1644頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
慶長の頃、越前下坂派の工は徳川家康・秀忠に召されて鍛刀し、その結果家康より「康」の一字を賜って康継と改め、同時に三つ葉葵紋を茎にきることを許された。説明書は、一派が近江より出て結城秀康の庇護のもと越前へ移り、その後将軍家のために越前と江戸の間を隔年に勤め、南蛮鉄と武州江戸を記す長銘を切ったと伝える。大坂落城後に獅子貞宗など罹災した相州の名作を再刃した初代がこの家を興したが、本項は主に二代を通して読む。すなわち初代の嫡子で下坂市之丞と称し、入道して康悦と号し正保三年に歿した工であり、その上手の作を説明書は初代と紛れるものとする。
その手はまず地鉄に読まれる。板目に杢を交えてやや肌立ち、処々流れごころとなり、地沸厚くつき、地景入り、時に地斑を交え、説明書のいう越前がねの黒みをおびたかな色をなす。この黒く肌立った地鉄は終始変わらぬところで、説明書はこれを一派の見どころとして繰り返し、鍛えが「越前がねの特色を示している」[[c:1]]と評する。これに焼くのはのたれを基調に互の目・小互の目を交えた刃で、小足・葉入り、沸強く処々荒めの沸を交えてむらづき、最も本工らしい効果であるばさけを生じ、金筋・砂流しが長くかかって縞がかり、匂口は沈みごころとなり、棟を焼く。
帽子はこの工の手を最もよく示すところである。多くは小丸に強く掃きかけて長く返り、説明書はある重要刀剣の刀について「帽子乱れ込み、強く掃きかけて、先小丸に長く返る」[[c:2]]と読み、静かな直刃の作では三品風を見せて同じく長く強く返る。掃きかけて丸く返る小丸と長い返りはコーパスを通じて繰り返し現れ、先は時に尖りごころとなり、また乱れ込むものもあるが、その長く掃きかける返りは終始変わらず、判者はこれを黒い越前がねと併せて工の独自の見どころとする。のたれの手と並んでもう一つの本来の作域があり、説明書はこれを二代本来の作柄とする。すなわち直刃を、時には中直刃を基調に、小互の目を連れて交え、小足さかんに入り、総体に棟を焼き、匂口はやはり沈みごころとなる。ある脇指について説明書は、この直刃に小互の目の連れたところを「二代康継本来の作柄」[[c:3]]と呼び、刃が直刃に静まってもなお地鉄に工の名が残る。
一派が最も称えられる作域はその相州写しで、説明書は初代・二代ともに上手であったとする。本コーパスには名物の縮模が伝わり、金象嵌の写し銘を入れた安宅貞宗の刀とこれを脇指に縮模した作、また罹災した本科を初代が再刃した獅子貞宗の二代唯一の写しがある。これらでは鍛えがつまり、刃文はのたれに互の目・大互の目を交えて大模様に乱れ、飛焼・湯走りかかって皆焼ごころとなり、沸よくつき、帽子は一枚風となる。ある短刀について説明書は、匂深く沸よくつき金筋・砂流しを見せる出来を「古作の相州上工を狙ったものと思われる」[[c:4]]としつつ、地鉄の肌立ちと匂口の沈みごころにはなお越前の手が窺えるとする。さらに彫物も別格で、彫物師喜内知相・記内知相の手になる深く力強い記内彫、すなわち三体仏・梵字・倶利迦羅竜・護摩箸・素剣などをもって説明書は代をも分かち、初代の三体仏が不動明王と二童子に限るのに対し、二代は地蔵・毘沙門天・文珠を組み合わせるとする。
二代を分かつのは、判者自身の言にあるように、いかに初代に迫りながらそのスケールにはなお及ばぬかという点である。説明書は繰り返し父と比べ、ある刀を「この刀はその作中、最も初代に近い作風」[[c:5]]を見せるものとし、晩年の一刀を「初代康継に劣らぬ技術が遺憾なく発揮された」[[c:6]]優品と称える。銘そのものがその区別を担い、「継」の字形が初代と異なり、一派はその写した古作相州によってではなく自らの見どころ、すなわち黒い越前がね・ばさけた刃縁・縞がかる砂流し・長く掃きかける小丸の返り・深い記内彫によって読まれる。
藤代の極めは上々作、東光大鑑も新刀中の上位に位置づける。国宝はなく重要文化財もない。その記録は重要刀剣の二十四口と、戦前に重要美術品に指定された二口の刀を通じ、後者は『康継大鑑』に所載され黒川古文化研究所に伝わる。来歴は大名・武家のもので、本多家、すなわち本多飛騨守・本多七左衛門の所持銘を帯び、金象嵌の截断銘を持つ作も数口あり、一口は「富士低し」の瓢逸な添銘を入れて、日本一の富士も我が作には及ばぬという工の自負を伝える。これらは頻繁に市場へ出る刀ではない。国宝として封じられたものはなく、多くが旧家の蔵に伝わるため、葵紋を切った在銘の康継は折にふれ根気をもって世に現れ、幅広く黒く豪壮なその作は、説明書のいう「迫力と野趣が感じられる」[[c:7]]一口であり、よく「越前物の特色をよく示しており」[[c:8]]と評されるものである。
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 (葵紋)康継入道南蛮鉄(二代) 於越州作之, 491 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 康継二代は初代の嫡子で名を市之亟という。初代は慶長年間に主君結城秀康の父徳川家康の御前で妙技を披露し、感服した家康から康の一字を授かり、さらに葵紋を茎に刻することを許され、江戸と越前と往還して鍛刀している。康継二代は江戸で育ち、一子相伝の南蛮鉄の熟しと鍛えの秘術を会得。寛永十七年八月には三代将軍家光の出雲日御碕神社への奉納太刀を鍛造するなど、将軍家お抱え刀工の重責を担った。


Echizen Shimosaka (Yasutsugu line, Echizen / Edo) · 武蔵 · 1624-1644頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
慶長の頃、越前下坂派の工は徳川家康・秀忠に召されて鍛刀し、その結果家康より「康」の一字を賜って康継と改め、同時に三つ葉葵紋を茎にきることを許された。説明書は、一派が近江より出て結城秀康の庇護のもと越前へ移り、その後将軍家のために越前と江戸の間を隔年に勤め、南蛮鉄と武州江戸を記す長銘を切ったと伝える。大坂落城後に獅子貞宗など罹災した相州の名作を再刃した初代がこの家を興したが、本項は主に二代を通して読む。すなわち初代の嫡子で下坂市之丞と称し、入道して康悦と号し正保三年に歿した工であり、その上手の作を説明書は初代と紛れるものとする。
その手はまず地鉄に読まれる。板目に杢を交えてやや肌立ち、処々流れごころとなり、地沸厚くつき、地景入り、時に地斑を交え、説明書のいう越前がねの黒みをおびたかな色をなす。この黒く肌立った地鉄は終始変わらぬところで、説明書はこれを一派の見どころとして繰り返し、鍛えが「越前がねの特色を示している」[[c:1]]と評する。これに焼くのはのたれを基調に互の目・小互の目を交えた刃で、小足・葉入り、沸強く処々荒めの沸を交えてむらづき、最も本工らしい効果であるばさけを生じ、金筋・砂流しが長くかかって縞がかり、匂口は沈みごころとなり、棟を焼く。
帽子はこの工の手を最もよく示すところである。多くは小丸に強く掃きかけて長く返り、説明書はある重要刀剣の刀について「帽子乱れ込み、強く掃きかけて、先小丸に長く返る」[[c:2]]と読み、静かな直刃の作では三品風を見せて同じく長く強く返る。掃きかけて丸く返る小丸と長い返りはコーパスを通じて繰り返し現れ、先は時に尖りごころとなり、また乱れ込むものもあるが、その長く掃きかける返りは終始変わらず、判者はこれを黒い越前がねと併せて工の独自の見どころとする。のたれの手と並んでもう一つの本来の作域があり、説明書はこれを二代本来の作柄とする。すなわち直刃を、時には中直刃を基調に、小互の目を連れて交え、小足さかんに入り、総体に棟を焼き、匂口はやはり沈みごころとなる。ある脇指について説明書は、この直刃に小互の目の連れたところを「二代康継本来の作柄」[[c:3]]と呼び、刃が直刃に静まってもなお地鉄に工の名が残る。
一派が最も称えられる作域はその相州写しで、説明書は初代・二代ともに上手であったとする。本コーパスには名物の縮模が伝わり、金象嵌の写し銘を入れた安宅貞宗の刀とこれを脇指に縮模した作、また罹災した本科を初代が再刃した獅子貞宗の二代唯一の写しがある。これらでは鍛えがつまり、刃文はのたれに互の目・大互の目を交えて大模様に乱れ、飛焼・湯走りかかって皆焼ごころとなり、沸よくつき、帽子は一枚風となる。ある短刀について説明書は、匂深く沸よくつき金筋・砂流しを見せる出来を「古作の相州上工を狙ったものと思われる」[[c:4]]としつつ、地鉄の肌立ちと匂口の沈みごころにはなお越前の手が窺えるとする。さらに彫物も別格で、彫物師喜内知相・記内知相の手になる深く力強い記内彫、すなわち三体仏・梵字・倶利迦羅竜・護摩箸・素剣などをもって説明書は代をも分かち、初代の三体仏が不動明王と二童子に限るのに対し、二代は地蔵・毘沙門天・文珠を組み合わせるとする。
二代を分かつのは、判者自身の言にあるように、いかに初代に迫りながらそのスケールにはなお及ばぬかという点である。説明書は繰り返し父と比べ、ある刀を「この刀はその作中、最も初代に近い作風」[[c:5]]を見せるものとし、晩年の一刀を「初代康継に劣らぬ技術が遺憾なく発揮された」[[c:6]]優品と称える。銘そのものがその区別を担い、「継」の字形が初代と異なり、一派はその写した古作相州によってではなく自らの見どころ、すなわち黒い越前がね・ばさけた刃縁・縞がかる砂流し・長く掃きかける小丸の返り・深い記内彫によって読まれる。
藤代の極めは上々作、東光大鑑も新刀中の上位に位置づける。国宝はなく重要文化財もない。その記録は重要刀剣の二十四口と、戦前に重要美術品に指定された二口の刀を通じ、後者は『康継大鑑』に所載され黒川古文化研究所に伝わる。来歴は大名・武家のもので、本多家、すなわち本多飛騨守・本多七左衛門の所持銘を帯び、金象嵌の截断銘を持つ作も数口あり、一口は「富士低し」の瓢逸な添銘を入れて、日本一の富士も我が作には及ばぬという工の自負を伝える。これらは頻繁に市場へ出る刀ではない。国宝として封じられたものはなく、多くが旧家の蔵に伝わるため、葵紋を切った在銘の康継は折にふれ根気をもって世に現れ、幅広く黒く豪壮なその作は、説明書のいう「迫力と野趣が感じられる」[[c:7]]一口であり、よく「越前物の特色をよく示しており」[[c:8]]と評されるものである。
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。