Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 南北朝時代。山城国。本国は大和国。相州鎌倉の新藤五国光門で修業し京に鍜治場を構えた。国重と国信がこの時代の特徴を顕著に示す。幅広く重ね薄く、先反りのついた姿恰好で、平造脇差は茎が短い造込み。相州伝板目鍛えの地鉄に皆焼刃の激しい焼刃を特徴とする。

Hasebe (Yamashiro) · 山城 · 1334-1360頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
国宝は名物へし切長谷部、筑前黒田家に長く伝来した脇指であり、説明はこの工の格を定めるとき必ずこれに立ち返る。無銘ながら出来が「正宗との直結を首肯せしむる」[[c:1]]優作の筆頭が、このへし切である。長谷部国重は、相州伝を相州から京の五条坊門猪熊に移した長谷部派の頭領で、古来正宗十哲の一人に数えられる。近年の説明は一派の道筋を、本国は大和に根ざし、相州で大成し、最後に京に落着いたとするものを最も有力とし、その「本国は大和」と明記する。地鉄の柾気は、相州の作風を透かして見える大和の素地に他ならない。信国派と並んで南北朝期の山城鍛冶を代表し、その中で弟とも弟子とも伝える国信と共に、国重・国信が代表格である。
説明が幾度も同文で繰り返す見どころは、同時代に同じ華やかな皆焼を焼いた相州の広光・秋広に対して語られる。相州の皆焼は丁子と互の目を刃取りの基本とし、帽子が「突き上げて尖りごころに返る」[[c:3]]のに対し、長谷部はのたれに互の目を交え、「帽子が大きく丸く」[[c:4]]、返りを長く焼き下げてそのまま棟焼に繋がる。これが極めの表である。その底に最も鋭い見どころがあり、ほぼ全ての説明が挙げる。鍛えに「相州には少ない柾気が刃寄りと棟寄りに著しく」[[c:5]]見られ、相州作の見せぬ大和の柾が現れる。加えて重ねの至って薄い造込みを手癖とする。帽子の対比も同様に繰り返され、相州が「突き上げて尖りごころに返る」[[c:3]]のに対し、長谷部は「帽子が大きく丸く」[[c:4]]、返りを長く焼き下げて棟焼に繋がる。
地鉄は板目総体に肌立ち、刃寄り・棟寄りが柾がかり流れて、地沸厚くつき地景入る。広めの作には地斑調の肌合も交じる。これにのたれに互の目を交え、足・葉入り、匂深く、小沸よくつき、金筋・砂流しが頻りに長くかかって、飛焼・湯走り・棟焼が地と棟にかかり皆焼となる。帽子は乱れ込んで掃きかけ、丸く、返りを長く焼き下げる。彫物は梵字・素剣・護摩箸、棟寄りの刀樋・二筋樋を見る。姿は時代そのもの、平造・三ツ棟、身幅広く重ね薄く、寸延びて浅く反る、南北朝期の平造脇指の造込みであり、長谷部の極めどころである。
作風は四様に分かれる。主流は右の皆焼を焼く寸延びの平造脇指・短刀である。その傍らに、より静かで稀な部類を説明は明記する。「皆焼をもって典型とするが、稀に」[[c:6]]直刃調あるいは浅い大どかなのたれを焼き、刃縁ほつれて二重刃となり、飛焼は僅かで、静かな乱れとなる。その一口を「一見相州伝上工を思わせる」[[c:7]]と評し、これが国重にまま見られるとする。太刀寸の作はほぼ全て大磨上無銘の刀として遺り、生ぶ銘は磨上げに失われ、本阿弥光常の手と読まれる金象嵌銘が極めを担う。刃文は小のたれに互の目・丁子風を交えて華やかとなり、棟を総体に焼く。最後に在銘作の本体があり、多くは茎中央寄りに「長谷部国重」と五字に切り、国構えの中が「玉」あるいは「王」となるものがある。銘振りの相違と年紀の幅から、説明は同名数工が代を重ねた古来の説に及ぶ。確実な有銘の太刀は最も稀で、「有銘の太刀の遺例は極めて稀」[[c:8]]とし、細身で古調な僅かの遺例を研究資料として貴ぶ。
この工を分けるものは、共に働いた相州の双璧に対して読むのが最も良く、しかも彼自身の見どころが境を引く。のたれに互の目の刃取り、長く棟焼に返る丸い帽子、何よりも刃寄り・棟寄りの柾気が、丁子と互の目の皆焼と尖る帽子の広光・秋広から彼を分ける。説明はその出来を相伝の上位と読む。将軍家伝来の金象嵌銘刀を「覇気横溢した同工極めの優品」[[c:9]]と称揚し、稀な有銘の太刀を相州伝上位の作柄が見事と評す。へし切そのもの――原銘を額銘に遺す大磨上の刀――は、出来が正宗との直結を首肯せしむる作として繰り返し挙げられ、十哲に列なる彼の位置の礎となる。年紀は確実な最古の文和四年(一三五五)に始まり、説明はこれを「長谷部研究のつけ石」[[c:10]]と呼ぶ。より古い貞和紀の太刀があるが研究の余地が残るとされ、文和四年紀が編年の基点となり、以後延文・貞治・応安から永和に及ぶ。
藤代の極めで上々作、刀剣美術名物帳の評価は一〇〇〇。指定の重みは厚く、国宝の名物へし切長谷部の下に重要文化財・重要美術品三口を戴き、その下に特別重要刀剣・重要刀剣の級に四七口が立つ。国宝・重要文化財は文化財として永く守られ取引されることはなく、その名に録された機関には熱田神宮・東京国立博物館・京都国立博物館・徳川美術館がある。大磨上の金象嵌銘刀は徳川将軍家に伝来し、将軍家伝来と記される。来歴は大名家を貫き、重要の脇指の一口は「元和三年九月十四日、将軍秀忠が膳所城御成り」[[c:11]]の節に藩祖本多康俊が拝領し、爾来本多家に伝来した。延文二年紀の重美の短刀は犬山藩主成瀬家に伝え、へし切そのものは筑前黒田家に長く蔵された。重要作の数口は本阿弥の折紙を伴い、延宝五年本阿弥光常の一口もある。一私人が現実に手にし得るのは取引の級の脇指・短刀の一口で、それとて市に現れるのは折々に過ぎない。有銘の長谷部国重が現れれば一事件であり、国宝と大名家の名品は、取引されるものではなく護られるものである。
國重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 山城
現在4点販売中
長谷部派は信国派と並び、南北朝時代中期の山城鍛冶を代表する一派である。同派の代表工として知られるのは国重と国信の兄弟であり、国平・宗信・重信らも一派を構成した。長谷部鍛冶の居住地については『如手引抄』に「猪熊住人」とあり、今日の五条坊門猪熊と伝えているが、現存する作刀に「山城国住」と銘したものは未だ見られない。近年の研究では、此の派の本国は大和であり、相州で大成し、最後に京に落ち着いたとする見解が最も有力視されている。南北朝時代になって出現した皆焼の華やかな刃文を焼くことを得意としており、相州の広光・秋広らと時を同じくして独自の作風を確立した。 作風の特色は、まず鍛えが板目に大板目・流れ肌を交え、柾気を交えている点に現れる。地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、地刃共に冴える作域を見せる。刃文は皆焼を基調とするが、相州の皆焼が丁子と互の目を主体とするのに対し、長谷部はのたれに互の目を交えた刃取りを基本とする点に相違がある。具体的には、小のたれ・互の目・丁子・尖り刃・矢筈がかる刃などを複雑に交え、足・葉が繁く入り、刃中厚く沸づく。随所に飛焼・湯走り・棟焼がかかって皆焼状を呈し、金筋・砂流しがさかんにかかり、匂口が明るく冴える。帽子は乱れ込み、尖りごころまたは大丸風に返り、掃きかける。姿は身幅が広く、元先の幅差が少なく、重ねがやや薄く、反りが浅くついて大鋒となる豪壮な体配を示す作品が多い。 長谷部派の作刀は、華やかで変化に富んだ出来口により、覇気横溢した作風として称揚される。相州伝の技法を取り入れながらも、柾気を交えた鍛えやのたれを基調とした刃取りなど、独自の特色を確立している。太刀の有銘作は稀であり、現存する作品の多くは大磨上無銘であるが、本阿弥光常による金象嵌極めを持つものも見られる。短刀・脇指が比較的多く現存しており、生ぶ茎無銘の作例においても、板目が肌立ち、皆焼刃を焼く特色が顕著に表れている。地刃共に健全で、肉置きがよく、保存状態の良い優品が多く伝来しており、同派の作刀は南北朝期の山城鍛冶の到達点を示すものとして高く評価されている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 南北朝時代。山城国。本国は大和国。相州鎌倉の新藤五国光門で修業し京に鍜治場を構えた。国重と国信がこの時代の特徴を顕著に示す。幅広く重ね薄く、先反りのついた姿恰好で、平造脇差は茎が短い造込み。相州伝板目鍛えの地鉄に皆焼刃の激しい焼刃を特徴とする。

Hasebe (Yamashiro) · 山城 · 1334-1360頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
国宝は名物へし切長谷部、筑前黒田家に長く伝来した脇指であり、説明はこの工の格を定めるとき必ずこれに立ち返る。無銘ながら出来が「正宗との直結を首肯せしむる」[[c:1]]優作の筆頭が、このへし切である。長谷部国重は、相州伝を相州から京の五条坊門猪熊に移した長谷部派の頭領で、古来正宗十哲の一人に数えられる。近年の説明は一派の道筋を、本国は大和に根ざし、相州で大成し、最後に京に落着いたとするものを最も有力とし、その「本国は大和」と明記する。地鉄の柾気は、相州の作風を透かして見える大和の素地に他ならない。信国派と並んで南北朝期の山城鍛冶を代表し、その中で弟とも弟子とも伝える国信と共に、国重・国信が代表格である。
説明が幾度も同文で繰り返す見どころは、同時代に同じ華やかな皆焼を焼いた相州の広光・秋広に対して語られる。相州の皆焼は丁子と互の目を刃取りの基本とし、帽子が「突き上げて尖りごころに返る」[[c:3]]のに対し、長谷部はのたれに互の目を交え、「帽子が大きく丸く」[[c:4]]、返りを長く焼き下げてそのまま棟焼に繋がる。これが極めの表である。その底に最も鋭い見どころがあり、ほぼ全ての説明が挙げる。鍛えに「相州には少ない柾気が刃寄りと棟寄りに著しく」[[c:5]]見られ、相州作の見せぬ大和の柾が現れる。加えて重ねの至って薄い造込みを手癖とする。帽子の対比も同様に繰り返され、相州が「突き上げて尖りごころに返る」[[c:3]]のに対し、長谷部は「帽子が大きく丸く」[[c:4]]、返りを長く焼き下げて棟焼に繋がる。
地鉄は板目総体に肌立ち、刃寄り・棟寄りが柾がかり流れて、地沸厚くつき地景入る。広めの作には地斑調の肌合も交じる。これにのたれに互の目を交え、足・葉入り、匂深く、小沸よくつき、金筋・砂流しが頻りに長くかかって、飛焼・湯走り・棟焼が地と棟にかかり皆焼となる。帽子は乱れ込んで掃きかけ、丸く、返りを長く焼き下げる。彫物は梵字・素剣・護摩箸、棟寄りの刀樋・二筋樋を見る。姿は時代そのもの、平造・三ツ棟、身幅広く重ね薄く、寸延びて浅く反る、南北朝期の平造脇指の造込みであり、長谷部の極めどころである。
作風は四様に分かれる。主流は右の皆焼を焼く寸延びの平造脇指・短刀である。その傍らに、より静かで稀な部類を説明は明記する。「皆焼をもって典型とするが、稀に」[[c:6]]直刃調あるいは浅い大どかなのたれを焼き、刃縁ほつれて二重刃となり、飛焼は僅かで、静かな乱れとなる。その一口を「一見相州伝上工を思わせる」[[c:7]]と評し、これが国重にまま見られるとする。太刀寸の作はほぼ全て大磨上無銘の刀として遺り、生ぶ銘は磨上げに失われ、本阿弥光常の手と読まれる金象嵌銘が極めを担う。刃文は小のたれに互の目・丁子風を交えて華やかとなり、棟を総体に焼く。最後に在銘作の本体があり、多くは茎中央寄りに「長谷部国重」と五字に切り、国構えの中が「玉」あるいは「王」となるものがある。銘振りの相違と年紀の幅から、説明は同名数工が代を重ねた古来の説に及ぶ。確実な有銘の太刀は最も稀で、「有銘の太刀の遺例は極めて稀」[[c:8]]とし、細身で古調な僅かの遺例を研究資料として貴ぶ。
この工を分けるものは、共に働いた相州の双璧に対して読むのが最も良く、しかも彼自身の見どころが境を引く。のたれに互の目の刃取り、長く棟焼に返る丸い帽子、何よりも刃寄り・棟寄りの柾気が、丁子と互の目の皆焼と尖る帽子の広光・秋広から彼を分ける。説明はその出来を相伝の上位と読む。将軍家伝来の金象嵌銘刀を「覇気横溢した同工極めの優品」[[c:9]]と称揚し、稀な有銘の太刀を相州伝上位の作柄が見事と評す。へし切そのもの――原銘を額銘に遺す大磨上の刀――は、出来が正宗との直結を首肯せしむる作として繰り返し挙げられ、十哲に列なる彼の位置の礎となる。年紀は確実な最古の文和四年(一三五五)に始まり、説明はこれを「長谷部研究のつけ石」[[c:10]]と呼ぶ。より古い貞和紀の太刀があるが研究の余地が残るとされ、文和四年紀が編年の基点となり、以後延文・貞治・応安から永和に及ぶ。
藤代の極めで上々作、刀剣美術名物帳の評価は一〇〇〇。指定の重みは厚く、国宝の名物へし切長谷部の下に重要文化財・重要美術品三口を戴き、その下に特別重要刀剣・重要刀剣の級に四七口が立つ。国宝・重要文化財は文化財として永く守られ取引されることはなく、その名に録された機関には熱田神宮・東京国立博物館・京都国立博物館・徳川美術館がある。大磨上の金象嵌銘刀は徳川将軍家に伝来し、将軍家伝来と記される。来歴は大名家を貫き、重要の脇指の一口は「元和三年九月十四日、将軍秀忠が膳所城御成り」[[c:11]]の節に藩祖本多康俊が拝領し、爾来本多家に伝来した。延文二年紀の重美の短刀は犬山藩主成瀬家に伝え、へし切そのものは筑前黒田家に長く蔵された。重要作の数口は本阿弥の折紙を伴い、延宝五年本阿弥光常の一口もある。一私人が現実に手にし得るのは取引の級の脇指・短刀の一口で、それとて市に現れるのは折々に過ぎない。有銘の長谷部国重が現れれば一事件であり、国宝と大名家の名品は、取引されるものではなく護られるものである。
國重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 山城
現在4点販売中
長谷部派は信国派と並び、南北朝時代中期の山城鍛冶を代表する一派である。同派の代表工として知られるのは国重と国信の兄弟であり、国平・宗信・重信らも一派を構成した。長谷部鍛冶の居住地については『如手引抄』に「猪熊住人」とあり、今日の五条坊門猪熊と伝えているが、現存する作刀に「山城国住」と銘したものは未だ見られない。近年の研究では、此の派の本国は大和であり、相州で大成し、最後に京に落ち着いたとする見解が最も有力視されている。南北朝時代になって出現した皆焼の華やかな刃文を焼くことを得意としており、相州の広光・秋広らと時を同じくして独自の作風を確立した。 作風の特色は、まず鍛えが板目に大板目・流れ肌を交え、柾気を交えている点に現れる。地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、地刃共に冴える作域を見せる。刃文は皆焼を基調とするが、相州の皆焼が丁子と互の目を主体とするのに対し、長谷部はのたれに互の目を交えた刃取りを基本とする点に相違がある。具体的には、小のたれ・互の目・丁子・尖り刃・矢筈がかる刃などを複雑に交え、足・葉が繁く入り、刃中厚く沸づく。随所に飛焼・湯走り・棟焼がかかって皆焼状を呈し、金筋・砂流しがさかんにかかり、匂口が明るく冴える。帽子は乱れ込み、尖りごころまたは大丸風に返り、掃きかける。姿は身幅が広く、元先の幅差が少なく、重ねがやや薄く、反りが浅くついて大鋒となる豪壮な体配を示す作品が多い。 長谷部派の作刀は、華やかで変化に富んだ出来口により、覇気横溢した作風として称揚される。相州伝の技法を取り入れながらも、柾気を交えた鍛えやのたれを基調とした刃取りなど、独自の特色を確立している。太刀の有銘作は稀であり、現存する作品の多くは大磨上無銘であるが、本阿弥光常による金象嵌極めを持つものも見られる。短刀・脇指が比較的多く現存しており、生ぶ茎無銘の作例においても、板目が肌立ち、皆焼刃を焼く特色が顕著に表れている。地刃共に健全で、肉置きがよく、保存状態の良い優品が多く伝来しており、同派の作刀は南北朝期の山城鍛冶の到達点を示すものとして高く評価されている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。