Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 三代陸奥と尊称される三代肥前國忠吉は寛永十四年の生れ。家伝の小糠肌とも呼ばれる肥前刀独特の地鉄にさらなる工夫を加え、特に覇気ある造り込みを自らの特色としたが、わずか五十歳で早逝。作刀が確認されているのは万治三年に陸奥大掾を受領して以降没するまでの二十七年間。父の協力者としての立場を忽せにしなかったことから自身銘の刻された作は比較的少ない。


Hizen Tadayoshi (Saga) · 肥前 · 1662-1681頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在5点販売中
忠吉は肥前一門の本家が継いだ名で、慶長以来佐賀にあって鍋島藩の抱え工であった。初代橋本新左衛門は慶長元年に藩命により上洛し、「京の埋忠明寿の門に学び」[[c:9]]、帰国して佐賀城下に住し、藩の庇護のもとに大いに繁栄した後、再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠広と改めている。その五字在銘の刀一口は慶長新刀の時代色をよく示し、身幅広く元先の幅差少なく、反り浅く大鋒の体配に、小板目の地鉄に地沸つき地景細かに入り、直刃調に浅くのたれた刃を焼いて足・葉よく入り小沸のつく。もっとも本コードに集まる作域は概ね後代の手であり、最もよく描き出されるのは三代陸奥守忠吉である。二代近江大掾忠広の嫡子で、土佐守家歿後に本家へ忠吉銘が返上されて襲名し、説明書はこれを肥前本家上三代中最上の鍛冶とする。
その典型は抑えのきいた作域にある。よくつんだ小板目の上に、説明書が「彼が最も得意とした中直刃」[[c:1]]と評する中直刃を焼き、処々浅くのたれて僅かに小互の目ごころを交え、小足・葉入り、匂深く小沸よくつき、細かに金筋・砂流しがかかって匂口の明るく冴える。帽子は終始直ぐの小丸で、時に深く返り先掃きかける。姿は幅広く長寸で重ね厚く手持ち重く、説明書はこれを父ならぬ祖父の手と読み、「父よりもむしろ祖父の初代忠吉を想わせる」[[c:2]]と繰り返す。
声価の拠るところは地鉄である。よく鍛えた小板目が肥前の米糠肌となり、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が入って深みを加え、かね冴える。説明書は本家上三代のうちその鍛えを「上三代の中で最も強く精美」[[c:3]]とし、また「鍛えの良さは彼の真骨頂」[[c:4]]とその鍛錬の良さを彼の本領とする。その地に対して刃文は比較的おだやかで、働きは大きな房ではなく深い匂と小沸、細かな金筋・砂流し、そして何より匂口の冴えに托される。
直刃の傍らには華やかな肥前丁子の作域がある。丁子の乱刃も上手で、互の目を交えた丁子乱れに太く足が入り、金筋・砂流しかかり、匂深く小沸つく。ある太刀の丁子は父のそれに近く、説明書は常に見る陸奥の作風と分かって「父近江の丁子乱に見紛うもの」[[c:5]]と評する。直刃の静けさに対する明るい一面である。いま一つ説明書が説くのは五字銘の稀少である。ある「肥前国忠吉」五字銘の刀は、銘の鏨使い・目釘孔の位置・作風より初代ならず三代と鑑せられ、「同工の五字忠銘は極めて珍しく」[[c:6]]、同工を知る上で貴重な資料とされる。また本家は刀の場合に指裏、すなわち太刀銘に切るのを常とし、「刀の場合に指裏」でなく差表に切る作は特に真偽に注意すべきと諭す。
本家のうちで三代を分かつのは、まさに極めの言うところである。その作品が比較的少ないのは、作刀期間が短かったことと、長命・多作の父の代作に任じていたためであり、二代近江大掾忠広が一門の広く開かれた記録であるのに対し、三代はその最も強く精良な手である。明るい米糠肌の直刃と力強い姿は後の肥前刀を読む基準をなし、説明書は彼を父からは鍛えの強さと地刃の冴えによって、初代からは鉄のつみと精良さによって分かつ。彼が守るのは保守の道、祖父の直刃を最上の冴えで継いだ手である。
収集の観点では、知り得る、そして鎌倉の大名跡に比べれば手の届く名である。藤代の極めは上々作。国宝・重要文化財はなく、その声価は特別重要刀剣九口と重要刀剣四十九口、両位あわせて五十八口に拠り、特別重要刀剣の数口を説明書は彼の最高の出来と評し、うち一口は「藩政時代は鍋島家に伝来した」[[c:8]]一振りである。来歴は記録される限り皇室と、その家が仕えた鍋島家を通じている。本家在銘の肥前忠吉は相応の数が残り、鎌倉の巨匠とは比すべくもなく世に出やすいため、重要刀剣位の極めある一口は根気強い収集家にとって決して手の届かぬものではなく、一方で三代最上の米糠肌に直刃を焼いた健全で堂々たる刀が世に現れるのは時折のことで、現れれば一つの里程標となる。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
Shinto · 肥前
現在116点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 三代陸奥と尊称される三代肥前國忠吉は寛永十四年の生れ。家伝の小糠肌とも呼ばれる肥前刀独特の地鉄にさらなる工夫を加え、特に覇気ある造り込みを自らの特色としたが、わずか五十歳で早逝。作刀が確認されているのは万治三年に陸奥大掾を受領して以降没するまでの二十七年間。父の協力者としての立場を忽せにしなかったことから自身銘の刻された作は比較的少ない。


Hizen Tadayoshi (Saga) · 肥前 · 1662-1681頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
現在5点販売中
忠吉は肥前一門の本家が継いだ名で、慶長以来佐賀にあって鍋島藩の抱え工であった。初代橋本新左衛門は慶長元年に藩命により上洛し、「京の埋忠明寿の門に学び」[[c:9]]、帰国して佐賀城下に住し、藩の庇護のもとに大いに繁栄した後、再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠広と改めている。その五字在銘の刀一口は慶長新刀の時代色をよく示し、身幅広く元先の幅差少なく、反り浅く大鋒の体配に、小板目の地鉄に地沸つき地景細かに入り、直刃調に浅くのたれた刃を焼いて足・葉よく入り小沸のつく。もっとも本コードに集まる作域は概ね後代の手であり、最もよく描き出されるのは三代陸奥守忠吉である。二代近江大掾忠広の嫡子で、土佐守家歿後に本家へ忠吉銘が返上されて襲名し、説明書はこれを肥前本家上三代中最上の鍛冶とする。
その典型は抑えのきいた作域にある。よくつんだ小板目の上に、説明書が「彼が最も得意とした中直刃」[[c:1]]と評する中直刃を焼き、処々浅くのたれて僅かに小互の目ごころを交え、小足・葉入り、匂深く小沸よくつき、細かに金筋・砂流しがかかって匂口の明るく冴える。帽子は終始直ぐの小丸で、時に深く返り先掃きかける。姿は幅広く長寸で重ね厚く手持ち重く、説明書はこれを父ならぬ祖父の手と読み、「父よりもむしろ祖父の初代忠吉を想わせる」[[c:2]]と繰り返す。
声価の拠るところは地鉄である。よく鍛えた小板目が肥前の米糠肌となり、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が入って深みを加え、かね冴える。説明書は本家上三代のうちその鍛えを「上三代の中で最も強く精美」[[c:3]]とし、また「鍛えの良さは彼の真骨頂」[[c:4]]とその鍛錬の良さを彼の本領とする。その地に対して刃文は比較的おだやかで、働きは大きな房ではなく深い匂と小沸、細かな金筋・砂流し、そして何より匂口の冴えに托される。
直刃の傍らには華やかな肥前丁子の作域がある。丁子の乱刃も上手で、互の目を交えた丁子乱れに太く足が入り、金筋・砂流しかかり、匂深く小沸つく。ある太刀の丁子は父のそれに近く、説明書は常に見る陸奥の作風と分かって「父近江の丁子乱に見紛うもの」[[c:5]]と評する。直刃の静けさに対する明るい一面である。いま一つ説明書が説くのは五字銘の稀少である。ある「肥前国忠吉」五字銘の刀は、銘の鏨使い・目釘孔の位置・作風より初代ならず三代と鑑せられ、「同工の五字忠銘は極めて珍しく」[[c:6]]、同工を知る上で貴重な資料とされる。また本家は刀の場合に指裏、すなわち太刀銘に切るのを常とし、「刀の場合に指裏」でなく差表に切る作は特に真偽に注意すべきと諭す。
本家のうちで三代を分かつのは、まさに極めの言うところである。その作品が比較的少ないのは、作刀期間が短かったことと、長命・多作の父の代作に任じていたためであり、二代近江大掾忠広が一門の広く開かれた記録であるのに対し、三代はその最も強く精良な手である。明るい米糠肌の直刃と力強い姿は後の肥前刀を読む基準をなし、説明書は彼を父からは鍛えの強さと地刃の冴えによって、初代からは鉄のつみと精良さによって分かつ。彼が守るのは保守の道、祖父の直刃を最上の冴えで継いだ手である。
収集の観点では、知り得る、そして鎌倉の大名跡に比べれば手の届く名である。藤代の極めは上々作。国宝・重要文化財はなく、その声価は特別重要刀剣九口と重要刀剣四十九口、両位あわせて五十八口に拠り、特別重要刀剣の数口を説明書は彼の最高の出来と評し、うち一口は「藩政時代は鍋島家に伝来した」[[c:8]]一振りである。来歴は記録される限り皇室と、その家が仕えた鍋島家を通じている。本家在銘の肥前忠吉は相応の数が残り、鎌倉の巨匠とは比すべくもなく世に出やすいため、重要刀剣位の極めある一口は根気強い収集家にとって決して手の届かぬものではなく、一方で三代最上の米糠肌に直刃を焼いた健全で堂々たる刀が世に現れるのは時折のことで、現れれば一つの里程標となる。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
Shinto · 肥前
現在116点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。