Stock number:KA-120122Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Juyo TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai): Miyagi・Early Edo period 1627Blade length(Cutting edge): 70.4cmCurve(SORI): 1.3cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.9cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.0cmHabaki: One parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered,Oh-Sujikaiyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri, Iorimune, Chu-kissakiJigane(Hada): MasameTemper patterns(Hamon): Sugu and GunomeTemper patterns in the point(Bohshi): HakikakeRegistration Card: Miyagi【Additional Information】【重要刀剣図譜より】 【In Japanese】形状 鎬造、庵棟、身幅やや広く、元先の幅差開き、鎬が高く、反り浅くつき、中鋒。鍛 柾目肌総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頻りに入り、かね冴える。刃文 直刃調浅く湾れごころを帯び、処々互の目を交じえ、匂深く沸厚くつき、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流し頻りにかかり、匂口明るく冴える。帽子 湾れ込み、焼き詰めごころとなり、盛んに掃き掛ける。茎 生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違、目釘孔一、指表目釘孔下棟寄りに長銘、裏に同じく年紀がある。説明初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、大和保昌五郎の末流と称している。彼は文禄元年、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)に生まれ、その後伊達正宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだという。寛永三年、山城大掾を受領したが、同十三年正宗が薨ずると、国包も仁沢用恵と称して入道した。正保二年、五十四歳の時、隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲ったが、以後も鍛刀を続け、寛文四年七十三歳で歿している。作風は一貫して大和保昌伝に終始し、柾目を鍛え、直刃仕立ての刃文に、打のけ・ほつれ・砂流し等がかかり、沸がよくつき、帽子は焼づめ風になるものである。この刀は、地鉄は柾目肌が総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頻りに入り、刃文は直刃調浅く湾れごころを帯び、刃縁総体にほつれ、匂深く沸厚くつき、金筋・砂流し頻りにかかるなど、初代国包の典型的作風を表している。この工としても身幅のやや広い力強い姿形を示しており、地景を頻りに交えた強い鍛えがよく、刃文も匂口が明るく冴え、刃中の働きにも富み、寛永四年紀も同作研究上の好資料である。
初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、大和保昌五郎の末流と称している。彼は文禄元年、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)に生まれ、その後伊達政宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだという。寛永三年、山城大掾を受領したが、同十三年政宗が薨ずると、国包も仁沢用恵と称して入道した。正保二年、五十四歳の時、隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲ったが、以後も鍛刀を続け、寛文四年七十三歳で歿している。作風は一貫して大和保昌伝に終始し、柾目を鍛え、直刃仕立ての刃文に、打のけ・ほつれ・砂流し等がかかり、沸がよくつき、帽子は焼づめ風になるものである。 この刀は、地鉄は柾目肌が総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頼りに入り、刃文は直刃調浅く汚れごころを帯び、刃縁総体にほつれ、匂深く沸厚くつき、金筋・砂流し頼りにかかるなど、初代国包の典型的作風を現わしている。この工としても身幅のやや広い力強い姿形を示しており、地景を頼りに交えた強い鍛えがよく、刃文も匂口が明るく冴え、刃中の働きにも富み、寛永四年紀も同作研究上の好資料である。








初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、大和保昌五郎の末流と称している。彼は文禄元年、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)に生まれ、その後伊達政宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだという。寛永三年、山城大掾を受領したが、同十三年政宗が薨ずると、国包も仁沢用恵と称して入道した。正保二年、五十四歳の時、隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲ったが、以後も鍛刀を続け、寛文四年七十三歳で歿している。作風は一貫して大和保昌伝に終始し、柾目を鍛え、直刃仕立ての刃文に、打のけ・ほつれ・砂流し等がかかり、沸がよくつき、帽子は焼づめ風になるものである。 この刀は、地鉄は柾目肌が総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頼りに入り、刃文は直刃調浅く汚れごころを帯び、刃縁総体にほつれ、匂深く沸厚くつき、金筋・砂流し頼りにかかるなど、初代国包の典型的作風を現わしている。この工としても身幅のやや広い力強い姿形を示しており、地景を頼りに交えた強い鍛えがよく、刃文も匂口が明るく冴え、刃中の働きにも富み、寛永四年紀も同作研究上の好資料である。
Sendai Kunikane (Yamato Hosho-den revival, Mutsu) · Rikuzen · 1624-1644頃
刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
初代国包は、文禄元年(一五九二)に奥州宮城郡国分若林、すなわち仙台城下に本郷源蔵として生まれ、伊達政宗の抱え鍛冶となった。主命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掾を受領し、自ら大和保昌五郎の末流と称している。この自称こそが本工を解く鍵である。相州伝の板目・杢が流行した新刀初期にあって、国包はその流れに与せず、生涯を挙げて、古郷大和の柾目鍛え・直刃焼きの保昌伝を復興することに費やした。説明書はこの目的から終始ぶれなかった手を描き、現代の指定記録もこれを裏付ける。記録に載る作はすべて在銘で、無銘の極めは一口もない。
その典型の手は、紛れがないほどに一貫している。鍛えは柾目肌のよくつんだもので、時に流れごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。しばしば区下より水影が立ち、説明書はこの立ち上る水影を本工の手くせと名指して、ある脇指についてこれを「初代国包の手くせといえる」[[c:1]]と評する。極めを補強する類の細部である。その地に直刃あるいは直刃調、しばしば広直刃を浅くのたれて焼き、匂口は深く明るい。働きは備前のそれではなく大和のそれで、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流しを刃中に自在に交え、喰違刃・二重刃・打のけを交え、小足が入る。
地鉄こそ本工を最初に読むところであり、最も本工らしいところである。清らかでよくつんだ柾目に、地沸細かに地景頻りという態は、ほぼ全作に現れ、鍛えが締まるほどにいよいよ精良となる。帽子は大和の所作で、直ぐに焼き詰めごころとなり盛んに掃きかける。説明書は、他が平凡な作にあってもこの帽子に古香を認める。そしてこの点について説明書は、指定の評としては珍しく率直である。古作の保昌に対して本工の及ばぬ点を挙げ、「物打上の変化に乏しいことと、帽子が平凡な点にある」[[c:2]]とする。同じ一文は、代表作たる年紀の刀の地刃の出来が、それでもなお優れていると認める。
一貫した一つの手が、その体裁によって二つの作に分かれる。標準の作は鎬造の刀で、生ぶ茎の長銘、多くは年紀を添え、鎬高く反り浅く中鋒延び、つんだ柾目の上に明るい広直刃を焼く。寛永四年紀・寛永九年紀の刀は、同工研究の好資料である。より稀な作は平造の脇指で、説明書はその現存が僅少であるとし、資料として貴重とする。これらでは同じ刃が開き、上半に焼幅を広めに取り、沸が厚く処々荒めとなり、湯走り状の飛焼を交え、匂口は沈みごころとなる。彫物は素剣に刀樋・連樋を彫口深く掻き流し、古作の大和物の特色を再現する。鬼切の脇指について説明書は、これを「初代国包の本領が遺憾なく発揮された」[[c:3]]一口とする。
同時代において本工を際立たせるのは、まさにこの古い国への忠実である。説明書は「作風は一貫して大和保昌伝に終始し」[[c:4]]と記し、柾目を鍛え、打のけ・ほつれ・砂流しを交えた直刃に沸よくつき帽子は焼き詰め風になると述べる。明るい柾目と大和の帽子は、周囲の相州風の工と本工とを分かち、清らかな地に直刃を抑えて焼く手は、本工が敬慕しながらも物打と帽子で及び得なかった古作の保昌とも、本工を分かつ。正保二年(一六四五)に隠居して家督を嫡子吉右衛門、二代山城守国包に譲り、柾目の保昌伝を幕末まで伝える仙台国包の家を興した。初代は後代を計る基準であり続ける。
収集の観点では、確たる地位を有する新刀の名である。記録は重要文化財一口、戦前の重要美術品二口、そして特別重要刀剣・重要刀剣の級に二十九口、合わせて指定を受けた作は三十三口に及び、そのすべてが在銘である。国宝はない。最上手は、生ぶ茎で在銘年紀、製作当初の姿を留め、宇和島伊達家に伝わった刀で、説明書はこれを「古保昌に優るとも劣らぬ作域」[[c:5]]とし、体配堂々たる傑作とする。その来歴は、本工の仕えた家と僅かな旧蔵家に根ざす。何より伊達家・宇和島伊達家であり、記録に載る作は皇室の蔵するところや、木村貞造ら名のある蔵家にも及ぶ。在銘の初代国包は、鎌倉の大家のように手の届かぬものではないが、その作の多くは取引よりも所蔵されるもので、平造の脇指は殊に稀であり、健全な年紀作が世に出るのは時折に過ぎない。一たび出れば、それは、相州に傾いた時代にあって、一人の仙台の工がかえって鍛え戻ろうとした古き大和の、明白にして完結した一個の証である。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · Rikuzen
現在12点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。
No cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
Stock number:KA-120122Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Juyo TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai): Miyagi・Early Edo period 1627Blade length(Cutting edge): 70.4cmCurve(SORI): 1.3cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.9cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.0cmHabaki: One parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered,Oh-Sujikaiyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri, Iorimune, Chu-kissakiJigane(Hada): MasameTemper patterns(Hamon): Sugu and GunomeTemper patterns in the point(Bohshi): HakikakeRegistration Card: Miyagi【Additional Information】【重要刀剣図譜より】 【In Japanese】形状 鎬造、庵棟、身幅やや広く、元先の幅差開き、鎬が高く、反り浅くつき、中鋒。鍛 柾目肌総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頻りに入り、かね冴える。刃文 直刃調浅く湾れごころを帯び、処々互の目を交じえ、匂深く沸厚くつき、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流し頻りにかかり、匂口明るく冴える。帽子 湾れ込み、焼き詰めごころとなり、盛んに掃き掛ける。茎 生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違、目釘孔一、指表目釘孔下棟寄りに長銘、裏に同じく年紀がある。説明初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、大和保昌五郎の末流と称している。彼は文禄元年、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)に生まれ、その後伊達正宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだという。寛永三年、山城大掾を受領したが、同十三年正宗が薨ずると、国包も仁沢用恵と称して入道した。正保二年、五十四歳の時、隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲ったが、以後も鍛刀を続け、寛文四年七十三歳で歿している。作風は一貫して大和保昌伝に終始し、柾目を鍛え、直刃仕立ての刃文に、打のけ・ほつれ・砂流し等がかかり、沸がよくつき、帽子は焼づめ風になるものである。この刀は、地鉄は柾目肌が総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頻りに入り、刃文は直刃調浅く湾れごころを帯び、刃縁総体にほつれ、匂深く沸厚くつき、金筋・砂流し頻りにかかるなど、初代国包の典型的作風を表している。この工としても身幅のやや広い力強い姿形を示しており、地景を頻りに交えた強い鍛えがよく、刃文も匂口が明るく冴え、刃中の働きにも富み、寛永四年紀も同作研究上の好資料である。
初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、大和保昌五郎の末流と称している。彼は文禄元年、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)に生まれ、その後伊達政宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだという。寛永三年、山城大掾を受領したが、同十三年政宗が薨ずると、国包も仁沢用恵と称して入道した。正保二年、五十四歳の時、隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲ったが、以後も鍛刀を続け、寛文四年七十三歳で歿している。作風は一貫して大和保昌伝に終始し、柾目を鍛え、直刃仕立ての刃文に、打のけ・ほつれ・砂流し等がかかり、沸がよくつき、帽子は焼づめ風になるものである。 この刀は、地鉄は柾目肌が総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頼りに入り、刃文は直刃調浅く汚れごころを帯び、刃縁総体にほつれ、匂深く沸厚くつき、金筋・砂流し頼りにかかるなど、初代国包の典型的作風を現わしている。この工としても身幅のやや広い力強い姿形を示しており、地景を頼りに交えた強い鍛えがよく、刃文も匂口が明るく冴え、刃中の働きにも富み、寛永四年紀も同作研究上の好資料である。








初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、大和保昌五郎の末流と称している。彼は文禄元年、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)に生まれ、その後伊達政宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだという。寛永三年、山城大掾を受領したが、同十三年政宗が薨ずると、国包も仁沢用恵と称して入道した。正保二年、五十四歳の時、隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲ったが、以後も鍛刀を続け、寛文四年七十三歳で歿している。作風は一貫して大和保昌伝に終始し、柾目を鍛え、直刃仕立ての刃文に、打のけ・ほつれ・砂流し等がかかり、沸がよくつき、帽子は焼づめ風になるものである。 この刀は、地鉄は柾目肌が総体に流れごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かく頼りに入り、刃文は直刃調浅く汚れごころを帯び、刃縁総体にほつれ、匂深く沸厚くつき、金筋・砂流し頼りにかかるなど、初代国包の典型的作風を現わしている。この工としても身幅のやや広い力強い姿形を示しており、地景を頼りに交えた強い鍛えがよく、刃文も匂口が明るく冴え、刃中の働きにも富み、寛永四年紀も同作研究上の好資料である。
Sendai Kunikane (Yamato Hosho-den revival, Mutsu) · Rikuzen · 1624-1644頃
刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
初代国包は、文禄元年(一五九二)に奥州宮城郡国分若林、すなわち仙台城下に本郷源蔵として生まれ、伊達政宗の抱え鍛冶となった。主命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掾を受領し、自ら大和保昌五郎の末流と称している。この自称こそが本工を解く鍵である。相州伝の板目・杢が流行した新刀初期にあって、国包はその流れに与せず、生涯を挙げて、古郷大和の柾目鍛え・直刃焼きの保昌伝を復興することに費やした。説明書はこの目的から終始ぶれなかった手を描き、現代の指定記録もこれを裏付ける。記録に載る作はすべて在銘で、無銘の極めは一口もない。
その典型の手は、紛れがないほどに一貫している。鍛えは柾目肌のよくつんだもので、時に流れごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。しばしば区下より水影が立ち、説明書はこの立ち上る水影を本工の手くせと名指して、ある脇指についてこれを「初代国包の手くせといえる」[[c:1]]と評する。極めを補強する類の細部である。その地に直刃あるいは直刃調、しばしば広直刃を浅くのたれて焼き、匂口は深く明るい。働きは備前のそれではなく大和のそれで、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流しを刃中に自在に交え、喰違刃・二重刃・打のけを交え、小足が入る。
地鉄こそ本工を最初に読むところであり、最も本工らしいところである。清らかでよくつんだ柾目に、地沸細かに地景頻りという態は、ほぼ全作に現れ、鍛えが締まるほどにいよいよ精良となる。帽子は大和の所作で、直ぐに焼き詰めごころとなり盛んに掃きかける。説明書は、他が平凡な作にあってもこの帽子に古香を認める。そしてこの点について説明書は、指定の評としては珍しく率直である。古作の保昌に対して本工の及ばぬ点を挙げ、「物打上の変化に乏しいことと、帽子が平凡な点にある」[[c:2]]とする。同じ一文は、代表作たる年紀の刀の地刃の出来が、それでもなお優れていると認める。
一貫した一つの手が、その体裁によって二つの作に分かれる。標準の作は鎬造の刀で、生ぶ茎の長銘、多くは年紀を添え、鎬高く反り浅く中鋒延び、つんだ柾目の上に明るい広直刃を焼く。寛永四年紀・寛永九年紀の刀は、同工研究の好資料である。より稀な作は平造の脇指で、説明書はその現存が僅少であるとし、資料として貴重とする。これらでは同じ刃が開き、上半に焼幅を広めに取り、沸が厚く処々荒めとなり、湯走り状の飛焼を交え、匂口は沈みごころとなる。彫物は素剣に刀樋・連樋を彫口深く掻き流し、古作の大和物の特色を再現する。鬼切の脇指について説明書は、これを「初代国包の本領が遺憾なく発揮された」[[c:3]]一口とする。
同時代において本工を際立たせるのは、まさにこの古い国への忠実である。説明書は「作風は一貫して大和保昌伝に終始し」[[c:4]]と記し、柾目を鍛え、打のけ・ほつれ・砂流しを交えた直刃に沸よくつき帽子は焼き詰め風になると述べる。明るい柾目と大和の帽子は、周囲の相州風の工と本工とを分かち、清らかな地に直刃を抑えて焼く手は、本工が敬慕しながらも物打と帽子で及び得なかった古作の保昌とも、本工を分かつ。正保二年(一六四五)に隠居して家督を嫡子吉右衛門、二代山城守国包に譲り、柾目の保昌伝を幕末まで伝える仙台国包の家を興した。初代は後代を計る基準であり続ける。
収集の観点では、確たる地位を有する新刀の名である。記録は重要文化財一口、戦前の重要美術品二口、そして特別重要刀剣・重要刀剣の級に二十九口、合わせて指定を受けた作は三十三口に及び、そのすべてが在銘である。国宝はない。最上手は、生ぶ茎で在銘年紀、製作当初の姿を留め、宇和島伊達家に伝わった刀で、説明書はこれを「古保昌に優るとも劣らぬ作域」[[c:5]]とし、体配堂々たる傑作とする。その来歴は、本工の仕えた家と僅かな旧蔵家に根ざす。何より伊達家・宇和島伊達家であり、記録に載る作は皇室の蔵するところや、木村貞造ら名のある蔵家にも及ぶ。在銘の初代国包は、鎌倉の大家のように手の届かぬものではないが、その作の多くは取引よりも所蔵されるもので、平造の脇指は殊に稀であり、健全な年紀作が世に出るのは時折に過ぎない。一たび出れば、それは、相州に傾いた時代にあって、一人の仙台の工がかえって鍛え戻ろうとした古き大和の、明白にして完結した一個の証である。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
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大和伝 · Rikuzen
現在12点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。
No cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).