1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。


江戸石堂 · 武蔵 · 1817-1891頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位37%
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文久二年(一八六二)、四十五歳の作になる刀を、説明書は得意とした備前伝を焼いた傑出の一口とし、地刃の冴えも見事であるとする。その作者石堂運寿是一は出羽国米沢の産で、通称を政太郎という。米沢藩工加藤長運斎綱俊の甥で、初め綱俊について鍛刀の技を学んだ。後に六代目石堂是一の聟となって江戸石堂家の七代目を継ぎ、明治二十四年に七十五歳で歿した。作刀期間は天保の末年から明治初年頃までにわたり、現存するものは比較的多い。説明書は本工を新々刀の上手に数え、次郎太郎直勝・細川正義らと肩を並べるものとする。
説明書は本工の手を意匠ではなく手法によって捉え、諸指定にほぼ同じ言葉で記す。作は大別して備前伝と相州伝の二様があるが、本領は石堂家の御家芸ともいえる備前伝にある。新々刀期の多くの備前伝の刀工が匂出来で丁子を焼くのに対して、是一は沸出来で焼いており、説明書は「ここに彼の独創性が窺える」[[c:1]]と結ぶ。二つの説明はその評判を一句に収め、世に「備前伝の丁子乱れを沸で焼いた」[[c:2]]と評される工とする。ある説明はその背後の歩みをも記す。初期の作は師綱俊同様に匂口の締まった足入りの丁子乱れであるが、「後年この丁子を小沸で焼いて刃中に一段と変化を出している」[[c:3]]。
典型作の刃文は丁子に互の目・小丁子・小互の目・尖りごころの刃を交える。足は長く頻りに入り、匂深く、沸厚くつき、処々荒めの沸を交えてやや叢づく。砂流しはおよそ四口に三口の刃中にかかり、しばしば金筋・沸筋を伴い、匂口は明るく冴える。地鉄は小板目のよくつんだ鍛えで、時に杢や流れ肌を交える。地沸は微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、最もよくつんだところでは無地風に近づく。ある説明は「この工としても特に地沸の厚く、地景のよく入った強い鍛えが特筆され」[[c:4]]と記す。帽子は乱れ込んで小丸、しばしば掃きかけ、ある説明はその所作に綱俊の手くせを窺い、両工の作風上の関係を推す。作は生ぶの頑健な刀で、身幅広く重ね厚く、中鋒延びごころあるいは大鋒に結び、茎は大筋違の鑢目に長銘をきる。
備前の中核の傍らに、説明書は別の作域を録する。ある説明は是一が「相州伝をも自から得意なりとしている」[[c:5]]とするが、優品の多くは備前伝である。安政二年(一八五五)の大小は相州伝に成功した作で、総金具を横谷宗寿の一作とする正式の蠟塗裃指の大小拵を伴う。全く時代を同じくした会津の刀工角大助元興との合作刀は、元興が鍛え是一が焼刃を入れた旨を記し、説明書は「全く是一の作と見える」[[c:6]]とする。最も稀な面は直刃である。安政五年(一八五八)の長寸で頑健な刀は無地風の鍛えに直刃調に互の目を交えた刃を焼き、匂深く匂口明るく、説明書は是一としては「比較的おだやかな作風」[[c:7]]を示したものとする。
説明書が繰り返し尺度とする作がある。小板目に地沸が微塵に厚くつき、刃中に金筋・沸筋が入って常にも増して力強いある重要刀剣の刀について、説明書は「運寿是一の本領が遺憾無く発揮された一口で、秀抜な出来映えを示している」[[c:8]]と記す。大鋒の長寸の作も、長大ながら破綻がないと称えられる。作はまたその時代相を帯びる。ある刀は説明書が「譲夷」と記す文字を彫り、その彫物に時代相を知ることが出来るとされる。また仙台伊達家の家臣真田幸歓の注文になる一刀は、茎に万葉仮名で「この太刀に貯めし心は身一つよ、守るたまかは我が君のため」[[c:10]]の一文を添える。
藤代の極めは上作、刀工大鑑は四百を与える。国宝・重要文化財はない。二十四口の刀が昭和三十九年(一九六四)から令和四年(二〇二二)にかけての各回に重要刀剣に指定され、いま一口、嘉永六年(一八五三)紀の刀は本間による御物台帳に所載される。その説明は、不幸明治廃刀令の時代であって「十分にその技を振い得なかったことは惜まれる」[[c:9]]と記す。これらはことごとく在銘で、多くは年紀を有する。現存が比較的多いため、在銘年紀の是一の刀は一代に一度というよりは折にふれて市に現れ、沸出来の丁子を焼いた健全な一口は、備前伝再興の最も個性的な姿を手にする比較的求めやすい道の一つである。
是一の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 武蔵
現在17点販売中
江戸石堂は、近江・京を経て武蔵江戸に根を下ろした石堂一門の分派であり、その本領は新刀の地に古一文字の丁子を再び挙げることにあった。石堂派はもともと近江に出て、福岡一文字の華麗な丁子乱れを範とした一統であるが、その一部の工が近江から京都へ、さらに江戸へと移って一派をなした。赤坂に残る銘がこの経路を示すとおり、これは近江からの直接移住ではなく、京を中継した段階的な江戸移住であった。江戸石堂を代表する工としては、日置光平、対馬守常光、越前守宗弘、そして運寿是一に至る石堂是一の系がある。彼らは寛永正保のころより筆を起こし、幕末新々刀期の是一に至るまで、都にあって備前丁子の伝統を一貫して保った。古作の写しを志向しつつ、その地刃は当代の明るい新刀のものであり、慶長新刀より寛文新刀へ移る過渡の体配を負う作も少なくない。 作風を貫くのは、意図して焼かれた備前丁子の乱れである。光平にあっては匂出来を主とし、互の目・小互の目・頭の丸い丁子・小丁子・尖りごころの刃を一線に交えて焼に高低をつけ、足・葉さかんに入り、匂口は明るく冴える。これを支えるのが、杢や流れ肌を交えた小板目をよく詰め、地沸を微塵につけた地の上に立つ乱れ映りであって、新刀の明るさのうちに古備前の趣を再び挙げたこの地こそ、一文字再興を最も徴づける見どころである。是一に至っては、同じ御家芸の丁子を匂出来ではなく沸出来で焼くところに独創を見せ、よく詰んだ小板目に丁子を主として互の目・小丁子・尖りごころの刃を交え、匂深く沸厚く、刃中を砂流しと長い金筋が走る。これは相州の地に運ばれた備前の刃であり、群がる新々刀の備前伝再興のなかで別格をなした。重花丁子の華やぎ、映りを伴う明るい地、沸づく丁子という三つの手は諸工に通じつつ、光平が映りの上の匂の丁子に最もよく成り、是一が沸の丁子に踏み出したように、同じ家の手が工ごとに分かれて働く。なお大和守安定のごとく、この一統に系を引きながらも、角張るのたれに互の目を交えて虎徹の傍らに立つ頑健な刀を本領とし、丁子の華麗には拠らぬ工も同じ江戸石堂の名のうちに数えられる。 鑑定の勘所は、新刀の明るい地に焼かれた復興丁子という一点に帰する。すなわち、よく詰んで地沸のついた小板目、ものによっては乱れ映りの立つ地の上に、足・葉のさかんに入る多種の丁子乱れが焼かれ、匂口が明るく冴えるところを見れば、まず江戸石堂を疑うべきである。匂出来か沸出来か、映りの有無、互の目の角張りの度合いによって工が分かれ、映りの上の冴えた丁子に光平を、沸出来の丁子に是一を読む。主要工のうち光平は江戸石堂を代表する最も技量の卓抜した工の一人とされて常光と双璧をなし、是一は幕末の上手の列に立って次郎太郎直勝・細川正義と肩を並べる。作はおおむね在銘で、銘より経歴と続柄を読み取れる開かれた記録をなし、無銘の極めに頼らぬ点も一派の特色である。伝来は概して私蔵・公蔵に静かに伝わるものが多く、なかには本間による御物台帳に所載の是一の一口も知られる。在銘の江戸石堂は折々市場に現れるに過ぎず、古備前の映りの上に立つ明るい丁子乱れを一見で知る者にとって、現れれば一事である。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
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