0円 (税込)



Horikawa school, Osaka Shinto (Settsu) · 摂津 · 1624-1646頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在6点販売中
和泉守国貞は、元和七年八月紀の刀に「摂州大坂住藤原国貞」[[c:8]]と銘を切っており、この一銘がその人と時とを定める。すなわち、すでに大坂に居を構えた堀川門の工であり、やがて大坂独自の鍛刀の伝統となるものの草創に立つ。世に「親国貞」と称するのは、説明書が明記するように、その嗣である後の井上真改、すなわち「養子井上和泉守国貞」[[c:1]]と区別するためである。本工は日向に生まれ、京に上って堀川国広の門に入ったというが、慶長十九年に国広が歿した時、国貞はわずか二十五歳であり、その初期の作風・銘振りから、実際には兄弟子の越後守国儔に倣ったものと鑑られる。師国広の没後、同門の河内守国助とともに大坂に移り、元和九年に和泉守を受領し、晩年は入道して道和と号し、慶安五年に六十三歳で歿した。まさに「大坂鍛冶の開拓者の一人」[[c:2]]である。
その典型は、慶長新刀の趣ある身幅広く堂々たる刀で、元先の幅差少なく、重ね厚く、中鋒または大鋒に延びる。鍛えは板目にしばしば杢を交え、やや肌立ちごころとなり、地沸厚く地景頻りに入る。肌の開くところを説明書はザングリとした堀川派の地と呼び、師の地鉄を大坂へ伝えたものとする。その地鉄の上に、のたれを基調として互の目・小互の目・丁子を交え、刃は江戸ぶりの直ぐな短い焼出しより起こり、匂深く小沸よくつき、砂流し・金筋かかり、しばしば棟焼や流れる飛焼を交える。帽子は直ぐに小丸、あるいは乱れ込んで掃きかけ、やや長く、または深く返る。最上手の作には彫物を加え、櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、梵字に護摩箸を添える、説明書が特色ある見事と評し本工の見どころに数える彫である。
地鉄は刃の下に終始変わらぬ地である。板目に地沸厚く地景頻りに入る肌が各作に現れ、時にあのザングリとした肌に立ち、時によくつむ。匂口深く明るく、刃縁の小沸は変わらぬところで、その働きは高い丁子の房ではなく足・葉、砂流し・金筋に托される。第二十七回特別重要刀剣のある刀が幅広く覇気ある出来に向かうところを、説明書は、事実上の師である国儔よりむしろ国広自身の悠揚せまらざる作域に近いとし、小丸下がりの帽子と棟焼の頻出を親国貞自身の見どころとして挙げる。匂口は時に深く、時に沈みごころとなり、その匂口と沸のつき方に意を凝らした変化こそ、本工の手の一部である。
作には三つの面が通う。第一はこの堀川の地に焼く典型ののたれ互の目の刀である。第二は師たちを遡る相州風の手で、説明書はある重要刀剣を、丁子目立たずしかも盛んな、師に倣った志津風の作とし、ある脇指を「相州貞宗の風を模して出来がよい」[[c:3]]とする。第三は晩年の明るく穏やかな直刃で、説明書は「親国貞の直刃出来は上手ながら」[[c:4]]、現存するものは頗る少なく、その作が「一見してむしろ二代真改の作に近い」[[c:5]]と記す。この晩年に道和の草書銘が属し、説明書はこれを晩年の作とし、二代の井上真改が代作代銘に多く任じたと伝える。ある草書の刀が初代自身の作か真改の代銘か、またこうした作を二代真改国貞と読むべきか否かは、説明書がなお研究に委ねるところである。
本工を分かつものは、その極めの言うところである。古備前・山城のよくつんだ小板目に対して、立つザングリの地と直ぐの焼出しより起こるのたれは、備前丁子ならぬ大坂新刀の手であり、子真改の一層明るく精良な鉄に対して、初代の手は大坂の伝統が育つより粗く覇気ある根として読まれる。説明書は河内守国助とともに本工をその草創の頭に置き、事実上の師国儔をその背後に、師国広をさらにその背後に置き、嗣の真改がその名を最も名高い世代へと継ぐ。
収集の観点では、手の届くところにありながら稀な、大坂新刀の大名跡である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣に数多く、特別重要刀剣三口と戦前の重要美術品数口に及び、特別重要刀剣・重要刀剣の級に八十四口が立つ。残る来歴は名高く、皇室、真田家、生国日向の伊東家を経た作があり、ある重要美術品は今佐野美術館に蔵される。説明書はその在銘刀に最上の言葉を惜しまず、ある一口を「初代国貞の典型作で殊に匂口が深く華やかで同作中傑出の一口」[[c:6]]とし、相州風の特別重要刀剣を端的に「親国貞会心の一口」[[c:7]]とする。その多くは伝えられて売買されず、特別重要刀剣・重要刀剣の級でも十年に数口が世に出るに過ぎない。健全な在銘の親国貞は、時に、根気をもって私蔵に入ることがあり、世に出れば確かな獲物であって、大坂の鉄の草創を語る一証である。
國貞の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
Shinto · 山城
現在63点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品の意思を商品到着日の翌日までに必ずメールもしくはファックスでご連絡ください。返品送料及び保険金額、返金振込手数料はお客様のご負担とさせていただきます。
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Horikawa school, Osaka Shinto (Settsu) · 摂津 · 1624-1646頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在6点販売中
和泉守国貞は、元和七年八月紀の刀に「摂州大坂住藤原国貞」[[c:8]]と銘を切っており、この一銘がその人と時とを定める。すなわち、すでに大坂に居を構えた堀川門の工であり、やがて大坂独自の鍛刀の伝統となるものの草創に立つ。世に「親国貞」と称するのは、説明書が明記するように、その嗣である後の井上真改、すなわち「養子井上和泉守国貞」[[c:1]]と区別するためである。本工は日向に生まれ、京に上って堀川国広の門に入ったというが、慶長十九年に国広が歿した時、国貞はわずか二十五歳であり、その初期の作風・銘振りから、実際には兄弟子の越後守国儔に倣ったものと鑑られる。師国広の没後、同門の河内守国助とともに大坂に移り、元和九年に和泉守を受領し、晩年は入道して道和と号し、慶安五年に六十三歳で歿した。まさに「大坂鍛冶の開拓者の一人」[[c:2]]である。
その典型は、慶長新刀の趣ある身幅広く堂々たる刀で、元先の幅差少なく、重ね厚く、中鋒または大鋒に延びる。鍛えは板目にしばしば杢を交え、やや肌立ちごころとなり、地沸厚く地景頻りに入る。肌の開くところを説明書はザングリとした堀川派の地と呼び、師の地鉄を大坂へ伝えたものとする。その地鉄の上に、のたれを基調として互の目・小互の目・丁子を交え、刃は江戸ぶりの直ぐな短い焼出しより起こり、匂深く小沸よくつき、砂流し・金筋かかり、しばしば棟焼や流れる飛焼を交える。帽子は直ぐに小丸、あるいは乱れ込んで掃きかけ、やや長く、または深く返る。最上手の作には彫物を加え、櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、梵字に護摩箸を添える、説明書が特色ある見事と評し本工の見どころに数える彫である。
地鉄は刃の下に終始変わらぬ地である。板目に地沸厚く地景頻りに入る肌が各作に現れ、時にあのザングリとした肌に立ち、時によくつむ。匂口深く明るく、刃縁の小沸は変わらぬところで、その働きは高い丁子の房ではなく足・葉、砂流し・金筋に托される。第二十七回特別重要刀剣のある刀が幅広く覇気ある出来に向かうところを、説明書は、事実上の師である国儔よりむしろ国広自身の悠揚せまらざる作域に近いとし、小丸下がりの帽子と棟焼の頻出を親国貞自身の見どころとして挙げる。匂口は時に深く、時に沈みごころとなり、その匂口と沸のつき方に意を凝らした変化こそ、本工の手の一部である。
作には三つの面が通う。第一はこの堀川の地に焼く典型ののたれ互の目の刀である。第二は師たちを遡る相州風の手で、説明書はある重要刀剣を、丁子目立たずしかも盛んな、師に倣った志津風の作とし、ある脇指を「相州貞宗の風を模して出来がよい」[[c:3]]とする。第三は晩年の明るく穏やかな直刃で、説明書は「親国貞の直刃出来は上手ながら」[[c:4]]、現存するものは頗る少なく、その作が「一見してむしろ二代真改の作に近い」[[c:5]]と記す。この晩年に道和の草書銘が属し、説明書はこれを晩年の作とし、二代の井上真改が代作代銘に多く任じたと伝える。ある草書の刀が初代自身の作か真改の代銘か、またこうした作を二代真改国貞と読むべきか否かは、説明書がなお研究に委ねるところである。
本工を分かつものは、その極めの言うところである。古備前・山城のよくつんだ小板目に対して、立つザングリの地と直ぐの焼出しより起こるのたれは、備前丁子ならぬ大坂新刀の手であり、子真改の一層明るく精良な鉄に対して、初代の手は大坂の伝統が育つより粗く覇気ある根として読まれる。説明書は河内守国助とともに本工をその草創の頭に置き、事実上の師国儔をその背後に、師国広をさらにその背後に置き、嗣の真改がその名を最も名高い世代へと継ぐ。
収集の観点では、手の届くところにありながら稀な、大坂新刀の大名跡である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣に数多く、特別重要刀剣三口と戦前の重要美術品数口に及び、特別重要刀剣・重要刀剣の級に八十四口が立つ。残る来歴は名高く、皇室、真田家、生国日向の伊東家を経た作があり、ある重要美術品は今佐野美術館に蔵される。説明書はその在銘刀に最上の言葉を惜しまず、ある一口を「初代国貞の典型作で殊に匂口が深く華やかで同作中傑出の一口」[[c:6]]とし、相州風の特別重要刀剣を端的に「親国貞会心の一口」[[c:7]]とする。その多くは伝えられて売買されず、特別重要刀剣・重要刀剣の級でも十年に数口が世に出るに過ぎない。健全な在銘の親国貞は、時に、根気をもって私蔵に入ることがあり、世に出れば確かな獲物であって、大坂の鉄の草創を語る一証である。
國貞の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
Shinto · 山城
現在63点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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