新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
Antique Japanese Sword Wakizashi Attributed to Yamashiro Osumi no Jo Masahiro with NTHK Kanteisho Certificate 【Description】 This wakizashi has been appraised by the NTHK as attributed to Yamashiro Osumi no Jo Masahiro (山城 大隅掾正弘), dating to the Keicho era (慶長, 1596–1615), Early Edo period. Osumi no Jo Masahiro (大隅掾正弘) was a prominent disciple of Horikawa Kunihiro (堀川国広, 1532–1614), who is widely regarded as the “founder of the Shintō (新刀) period” in Japanese sword history. Masahiro was said to be a nephew of Kunihiro and the son of either Horikawa Kuniyasu or Horikawa Kunimasa, both relatives of Kunihiro. He received the honorary title of Ōsumi no Jō (大隅掾) and continued the distinguished Horikawa tradition. Like his master, Masahiro was originally from Hyuga province (present-day Miyazaki prefecture) but later moved to Ichijō Horikawa in Kyoto, where the Horikawa school was based. He is believed to have succeeded Kunihiro’s legacy in Kyoto and became an important smith in the early Shintō period. About his master, Horikawa Kunihiro Horikawa Kunihiro is one of the most celebrated swordsmiths in Japanese history. Born in Hyūga province, he later relocated to Kyoto, establishing his workshop in the Horikawa district, which gave the school its name. Kunihiro trained many talented disciples and is revered as the pioneer of the Shintō era (late 16th – early 17th century), a period marked by new styles and techniques that distinguished swords from the earlier Koto (old sword) period. His blades are highly prized for their beautiful jigane (steel surface), refined hamon (temperline), and innovative workmanship that influenced countless smiths of later generations. Horimono (Engraving) This blade features exquisite engravings (Horimono, 彫り物) on both sides of the blade. On one side, an intricate carving of Fudō Myō-ō riding a dragon (倶利伽羅不動, Kurikara Fudō) is depicted. Fudō Myō-ō is a guardian deity in esoteric Buddhism, known as the “Immovable One.” He is revered for his role in repelling evil and guiding people toward the righteous path, making him especially venerated by samurai warriors. The dragon depicted in this engraving is known as Kurikara Ryū-ō (倶利伽羅龍王), a dragon deity considered an incarnation of Fudō Myō-ō himself. Kurikara Ryū-ō is believed to be a divine protector, enveloped in blazing flames that burn away all obstacles and evil. While dragons are traditionally seen as powerful mythical creatures, Kurikara Ryū-ō embodies the very power of Fudō Myō-ō, cutting through ignorance and purging worldly desires. The image of Fudō Myō-ō riding atop the dragon symbolizes his absolute control over chaotic forces, guiding them toward justice and enlightenment. Above Fudō Myō-ō, a Bonji (梵字) inscription is engraved. Bonji are Sanskrit characters used in esoteric Buddhism to represent Buddhas and Bodhisattvas, and the inscription on this blade is believed to invoke the divine protection of Fudō Myō-ō. On the other side of the blade, an engraving of the Kurikara-ken (倶利伽羅剣) is featured. The Kurikara-ken is the sacred sword wielded by Fudō Myō-ō and is often depicted entwined with a dragon, symbolizing the power to cut through ignorance and evil. This esoteric Buddhist emblem was believed to provide protection and spiritual strength, and samurai warriors often incorporated such motifs into their swords as a source of mental and spiritual support. The design of this Kurikara-ken follows the form of the Sanko-tsuka-ken (三鈷柄剣, Three-pronged Vajra Sword), a sacred tool in esoteric Buddhism used in rituals, prayers, and for warding off evil. 【 Blade】 Cutting Edge Length(Nagasa) : 48.4 cm (19.0 inches) Curvature(Sori) : 1.5 cm (0.59 inches) Hamon : The crystalline structure which forms along the cutting edge of a blade as a result of the hardening process Jimon(Jihada) : visible steel surface pattern created by folding and hammering during forging process Kissaki : Kissaki is the tip of the Japanese sword. Nakago : Nakago is the tang of the Ja



















堀川 · 山城 · 1596-1615頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位10%
現在3点販売中
慶長十一年三月の年紀をもつ作が、刀・脇指・短刀それぞれ一口ずつ現存し、これが大隅掾藤原正弘の遺した唯一の年紀作である。本工は日州飫肥の出身で、上京して、新刀の世の初頭に京の鍛刀をあらためた堀川国広の門に入った。説明書は彼を国広の甥とも門人とも記し、その別を定めぬままとする。慶長十一年の作の時点で既に大隅掾を受領しており、一門中、阿波守在吉の慶長二年紀に次ぐ早さであることから、堀川一派の先輩格に立つ。とりわけ本工は、国広門下のうち最も師に近似する手とされ、師の代を勤めた一人に数えられる。『冶工銘集誌』はこれを一行で評して、「国広が代を勤むると云へり、至って上手也」[[c:1]]とする。
本工の典型は、慶長新刀姿の長寸の刀である。身幅広く元先の幅差少なく、反り浅く、中鋒延びごころ或は大鋒となり、説明書はこれを南北朝期の大太刀を大磨上げにした姿に擬する。多くは長大で手持が重く、説明書は「長大でズッシリと手持の重い体配」[[c:2]]が一門中でもこの工に多いと幾度か記す。その姿に相州伝を焼くが、堀川一門に常の華やかな手ではない。静かな手である。刃の本体は直刃調あるいは小のたれを基調に、互の目・小互の目・角張る刃・尖り刃を交え、足入り、小沸つき時にむらづいて荒めの沸となり、砂流しかかり金筋入り、匂口は沈みごころとなる。説明書は本工について端的に「大乱れのものは見ない」[[c:3]]とし、その抑制こそが、いかなる華やかな写しにも増して、本工を識別させる。
地鉄は、その穏やかな作にも働いた作にも通う変わらぬ地である。板目が肌立ち、堀川物特有のザングリと枯れた肌合を呈し、地沸厚くつき地景入る。一派と共有するこの肌合のうちで本工の地を分かつのは杢で、一段と目立って交じり、説明書はこの目立つ杢を同工の特色として挙げる。数口には区際より水影が立ち、これは師より伝わる。帽子は乱れ込んで小丸に返り掃きかけ、刃文の最も穏やかなところでは直刃に近く焼いて静かに丸く納める。
説明書は、その少ない作のうちに一人の手の二つの相を読む。多いのはこの穏やかな相州写しで、相州上工、就中志津を狙い、梵字・素剣・護摩箸を彫る一口の脇指では貞宗を狙う。説明書は最上の刀を「同作中の優品」とし、「相州上工に倣った堀川物の作風」[[c:4]]をあらわすとする。いま一つの相は、代作伝の拠るところである。匂口が沈み、沸が部分的に厚くついてむらづき、刃が区下まで焼き込まれて、説明書が国広の焼出しの手くせとする態を示す。この穏やかな質の特別重要刀剣の一口は、師に最も近く、国広の作域に相通じると読まれる。年紀はいかなるわけか慶長十一年に限られ、慶長十九年国広没後は本国日向に帰ったものと思われ、「日州住」「日州飫肥住」「日向国住」と銘した。
堀川一門のうちで本工を分かつのは、まさにこの静けさである。堀川物一般の手は高い相州上工を賑やかに華やかな乱れで写すが、本工はそうしない。焼を低く刃取りを抑えて仕立てるため、師の華やかな作意はその作に比較的薄く、師のより深い徴のみが残る。本工の明るい特色は、ザングリの地に目立つ杢、沈んだ匂口、区下の焼込み、区際の水影である。説明書はさらに踏み込み、本工の作風・銘振り・鑢目・茎仕立は一門中最も国広に近似し、銘字中の藤原の二字に至るまで全く国広に類似するとする。本工は堀川の代作の手であり、同じ相州伝を焼低く仕立てた工である。
収集の観点では、稀な、そして示唆に富む名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要文化財一口、特別重要刀剣の刀三口、重要刀剣十口、本間による御物台帳所載の二口、指定を受けた作は併せて十六口を数える。本工の刀はほとんどが長大で多くは磨上げられているため、生ぶ茎の在銘刀は稀で、説明書はかかる作を殊に貴重とし、最上のものを長大ながら破綻のない優刀とする。現存作は真に少なく、重要文化財の慶長十一年紀の刀は東京国立博物館の所蔵であり、その他の多くは所在が記録されておらず、在銘の大隅掾正弘が世に出ることは稀である。そして世に出たとき、その一口は二つのものを同時に帯びる。それ自体すぐれた慶長新刀の一刀であること、そして堀川国広その人の手を覗く現存最も近き窓であること。これこそ、私蔵の一口が収集家にとって持つ値打ちである。
正弘の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 山城
現在64点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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