肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別保存刀剣鑑定書付 五代肥前国忠広 刀 【解説】 本作は、元禄9年(1696年)に生まれ、安永4年(1775年)に没した肥前国忠広(五代)の手による一振りです。四代忠吉の嫡男として生まれ、通称を新左衛門と称しました。当初は忠広と銘じ、父の没後に忠吉の名を継承して忠吉家五代当主となりました。 寛延3年(1750年)には、徳川幕府よりその卓越した技量を認められ「近江守」を受領しました。受領銘は、時の権力者や武士階級からその実力と名声を公式に認められた名工のみに許される名誉ある称号であり、彼が当時いかに高く評価されていたかを物語っています。 五代忠吉は歴代の例に漏れず肥前伝の伝統を堅実に守り、気品ある地鉄と優れた切味を兼ね備えた「肥前刀」を世に送り出しました。鍋島藩の庇護のもとで制作されたこれらの刀剣は、今日においても愛刀家の間で極めて高く評価されています。 (肥前開祖・初代忠吉について) 肥前刀の開祖である初代忠吉は、佐賀藩に生まれました。慶長元年(1596年)、藩命により京都へ上り、江戸初期の名工・埋忠明寿の門を叩きます。二年の修行を経て慶長3年(1598年)に帰国。その技量を高く評価した初代藩主・鍋島勝茂公により藩の「御抱え鍛冶」に任じられました。佐賀城下に居を構えた忠吉は肥前忠吉家を興し、江戸時代を通じて百名を超える門弟を輩出する一大流派を築き上げました。本作の作者である忠広も、その正統なる継承者の一人です。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に指定されています。これは、保存状態が極めて良好であり、かつ美術的価値が特に高い真作の日本刀に対してのみ与えられる公的な鑑定書です。 【刀身】 長さ(刃長):73.9 cm 反り:1.8 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造の模様 地文(地肌):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先:刀身の先端部分 茎(なかご):柄に収まる中心部分。日本刀の茎に残る黒錆は、内部の赤錆を防ぐ役割を果たします。また、経年による茎の朽ち込みや色調の変化は、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【拵】 拵(こしらえ):鞘、柄、鍔などを含めた外装一式。 本作の刀装具(目貫、縁頭、笄)は、すべて「龍」の意匠で統一されています。 龍は古代中国の神話に由来する想像上の生き物であり、瑞祥(吉兆)の象徴とされてきました。その姿は「九似」と称され、角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、項は蛇、腹は蜃(みずち)、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛に似ると伝えられています。その威風堂々とした姿から、あらゆる生物の頂点に立つ霊獣として崇められました。 古代中国において龍の文様は皇帝のみが使用を許された高貴な紋章であり、その形態や爪の数に至るまで厳格な規定が設けられていました。

























新刀 · 肥前 · 1748-1751頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位49%
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新刀 · 肥前
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肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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