肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
日本刀 刀 銘 吉廣(肥前吉廣) 日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は「吉廣」と銘が切られた一振りです。日本美術刀剣保存協会(日美振)の鑑定によれば、本作は肥前吉廣の作とされています。同協会によれば、初代または二代の伊勢大掾吉廣の手によるもので、初代は承応から万治年間(1652-1661年)、二代は貞享から元禄年間(1684-1704年)にかけて肥前国(現在の佐賀県)で活躍しました。 初代吉廣は、江戸時代初期を代表する名工である初代忠吉の門人です。その作風は師である忠吉に酷似しており、俗名は吉左衛門と称しました。寛文年間(1661-1673年)には、その優れた技量により朝廷より「伊勢大掾」の受領銘を賜っています。 師:初代忠吉について 初代忠吉は佐賀藩に生まれ、慶長元年(1596年)に藩命を受け京都へ上り、江戸初期の巨匠・埋忠明寿の門を叩きました。二年後の慶長三年(1598年)に帰郷。佐賀藩主・鍋島勝茂公はその技量を高く評価し、御抱え鍛冶として重用しました。忠吉は佐賀城下に居を構え、江戸時代を通じて百名以上の刀工を輩出した「肥前忠吉派」を確立しました。吉廣もその門下の一人です。 肥前国について 肥前国の刀工たちは、有力大名である鍋島家の庇護のもとで活動しました。彼らは「肥前刀」として知られる美しい地鉄(小板目肌がよくつんだ「肥前肌」)を特徴とします。当時、国際貿易で栄えていた肥前国は、その地理的条件から西洋から伝来した鉄(南蛮鉄)を入手しやすく、それらを独自の技法で配合することで、精緻な地鉄を生み出しました。 太刀拵について 本作は太刀拵に収められています。太刀は平安時代から室町時代初期にかけて、主に甲冑を着用した武士が馬上で使用した形式です。刃を下に向けて腰から吊るす「佩く(はく)」スタイルは、地上にいる敵を素早く斬り下ろすのに適していました。その華やかな外装から、後世には武士のステータスシンボルとしても重宝されました。 本刀は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「保存刀剣」として鑑定されています。この鑑定書は、保存状態が良く、美術品としての価値が高い真作の日本刀にのみ与えられるものです。 ※刀身には数箇所、鍛え傷(きたえきず)が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身諸元】 長さ(Nagasa):75.6 cm 反り(Sori):1.7 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造。 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、柄の中での赤錆を防ぐためにあえて黒錆を残します。この茎の経年変化(錆色)は、専門家が制作年代を推定する際の重要な指標となります。 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などから構成される外装。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられる一対の金具。 本作の縁頭の意匠は「唐草(からくさ)」です。蔓(つる)や葉が絡み合う文様が施されています。
























新刀 · 肥前 · 1652-1655頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
現在2点販売中
吉廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在132点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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