鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
特別重要刀剣 短刀 銘 守家 1102243.22.26 fred@nihonto.com 鎌倉時代中期、備前伝の作刀は全盛を極め、福岡一文字派の巨匠たちをはじめ、長船派の光忠や守家といった名工が輩出されました。光忠は新刀期まで続く長船派の祖と仰がれる存在であり、一方の守家は畠田備前の祖とされていますが、長船の地でも作刀していたと考えられています。畠田は長船に隣接する地名、あるいは長船の一部であったとも伝えられています。藤代義雄氏の評価において、守家は光忠や長光らと並び「最上作」に列せられる最高位の銘工です。 守家は備前国畠田に住したことから「畠田守家」とも称されます。現存遺作の中に「畠田住」と切り添えた銘は見当たりませんが、「長船住」と銘じた作は存在します。このことから、当時、畠田は長船村の一部と見なされていたか、あるいは畠田派がどこかの時点で長船派に合流した可能性が示唆されます。守家の作風は、光忠や長光ら長船本流に通じる華麗なものですが、日本美術刀剣保存協会(日美工)の指摘によれば、彼らと比較して互の目が目立ち、独特の「蛙子丁子(かわずのこちょうじ)」がより強調される点にその特色があります。 畠田守家の初代の活躍時期は正嘉(1259年)頃とされています。これは、13世紀前半に生まれ、暦仁(1238年)頃に長船派を興したとされる備前光忠とほぼ同時代にあたります。また、二代守家については弘安(1280年)頃の年紀作が残されており、初代から二代へとその卓越した技量が継承されていることが伺えます。






















Hatakeda (Bizen) · 備前 · 1232-1233頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
守家銘の紀年作は文永九年(一二七二)の太刀を最古とし、説明はこの頃に、鎌倉中期備前の畠田派の祖、長船光忠と同時代の初代守家を置く。備前国畠田に在住したことから畠田守家と呼ばれるが、守家および一門の真守に「畠田住」と銘したものは今日まで未見で、「備前国長船住守家造」[[c:2]]などと「長船住」と銘することから、畠田はおそらく長船村の中の小字であったと推察されている。銘鑑はその系を福岡一文字派の守恒系に置く。
説明は数十年の指定を通じて、ほぼ同じ言葉で同工を性格づける。すなわち、その作風は同時代の長船刀工に近似するが、一般に「地がねが肌立ち、焼刃に蛙子丁子が目立つところに特色が見られる」[[c:3]]。蛙子丁子は「守家・光忠の最も特色ある焼刃」[[c:4]]とされ、畠田派の後輩に受け継がれ、光忠の子長光には稀である。鑑定はこの見どころを深部まで読む。焼刃そのものに蛙子の目立たない特別重要刀剣の太刀では、「刃方に向って谷が蛙子状」[[c:5]]となったところが随所に見られる点が、肌立ちごころの鍛えとともに大きな見所として挙げられる。無銘の作では、表裏中程の「蛙子が大房に乱れるところに守家の極めどころがある」[[c:6]]とされる。出来の高さそのものが極めを担うこともあり、生ぶ茎無銘の太刀について説明は「これ程までに技術の上がるものは守家以外にはない」[[c:7]]と記す。
太刀は腰反り高く踏張りがあって中鋒に結び、長寸で重ねの厚いものもあり、生ぶ茎の作の堂々とした姿が称揚される。鍛えは肌立ちごころの板目に地沸がつき、その上に乱れ映りが鮮明に立つ。刃文は華やかな丁子乱れに小丁子・互の目・尖りごころの刃、時に大丁子を交え、足・葉よく入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々飛焼を交え、匂口は明るい。帽子は乱れ込み、または小丸に結ぶ。乱れ映りが鮮やかに立ち、匂いの深い丁子乱れの匂口がよく冴える在銘の太刀を、説明は「彼の傑作と称すべき」[[c:8]]出来ばえと評している。
この華やかさの傍らに、説明は「穏やかな部類」と呼ぶいまひとつの作域を認める。小太刀は肌立ちごころの板目に地沸が微塵につき、細直刃基調に小互の目・小のたれを交えて匂口がしまり、現存稀な剣は小板目のつんだ鍛えに細直刃を焼いて、湯走り状の飛焼・二重刃がかかる。在銘の太刀にも、小丁子・小互の目が総じて小模様となり、小板目肌のよくつんだ精美な鍛えが称えられる一口がある。大振りの銘振りはこの穏やかな作域の上にも見られ、その小太刀は同工の作域と銘振りとの関係を知るうえで資料的に貴重とされる。代別は未決の問題であり、説明は率直である。通説は初代を光忠、二代を長光と同年代の刀工とする二代説を伝えるが、「初二代の明確な区分は、なお今後の研究課題」[[c:10]]であり、また「一人説を唱える向きもある」[[c:11]]。本間説はさらに進んで、鎌倉時代だけでも少なくとも三代を見、ほぼ同年代の守家工房に同銘を切る作者が一人ならず存在した可能性を許している。太刀の大字銘は初代とされるのが伝統だが、銘字の大小のみでは区別し難いと注意され、初代の有銘現存作は「比較的に少い」とも記される。ここに集う指定作では在銘二十二口に対し無銘五口で、多くは大振りの二字銘であり、二字銘に花押を添えた例が二口あって、光山押形所載の短刀に同例を見る資料的価値が指摘される。
同工の位置は光忠によって定まる。両者は隣り合う村で同じ年代に鍛刀し、説明は両工の作風に「やや相通うものが見られる」[[c:14]]と記す。挙げられる相違は守家自身の作に即したもので、長船物に比して地鉄の肌立つものが多く、焼刃の蛙子丁子が一段と目立つ。この焼刃は畠田派の後輩に受け継がれ、一門には「備前国長船住人右馬允真守造」[[c:13]]と銘した真守があり、守家銘そのものは南北朝の康安・建徳まで及ぶ。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は二十七口を数え、重要文化財六口、重要美術品五口、特別重要刀剣と重要刀剣の級に十五口(うち特別重要刀剣三口)が含まれる。九口に伝来が録され、徳川家(徳川家達・徳川圀順)、三井家、細川家、上杉家、奥平家、皇室と、名家の手を経ている。所在の知られるものは京都国立博物館、永青文庫、日枝神社、住吉大社などに蔵され、重要文化財の級は文化財として永く保存されて取引されることはない。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要刀剣・重要刀剣の級の十五口であるが、いずれも長く秘蔵され、市に現れることは稀である。現れるとすれば多くは重要刀剣の例であり、大振りの二字銘を有する在銘の太刀は、この名のもとで望みうる最上のものである。
守家の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備前
現在6点販売中
畠田派は鎌倉時代中期の備前国に興った一門で、長船村に直に隣接する畠田の地に住したことから、その祖を畠田守家と呼ぶ。守家および一門の真守らに「畠田住」と銘したものは未見で、いずれも「備前国長船住守家造」[[c:1]]などと長船住に切ることから、畠田はおそらく長船村のなかの小字であったと推察されている。守家には文永九年(一二七二)紀の太刀を最古として在銘作があり、長船光忠・長光と同時代に鍛えた工としてその名を立てる。銘鑑はその系を福岡一文字の守恒系に置くが、守家の作はすでに福岡一文字の古調を離れ、長船一派が古典の姿を結ぶその近き圏内に位置する。守家の代別はなお定まらず、通説は初代を光忠、二代を長光と同年代の刀工とする二代説を伝えるが、初二代を銘字のみで明確に分けることは難しく、一人説を唱える向きもあって、今後の研究課題とされている。 一門の作風は同時代の長船刀工に近似するが、地鉄が肌立ち、焼刃に蛙子丁子が目立つところに共通の特色がある。鍛えは板目に杢を交え、処々流れて肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、その上に乱れ映りが鮮やかに立つ。この肌立つ備前地に立つ冴えた映りは、ほぼ全作に挙げられる確かな見どころである。刃文は華やかな丁子乱れを主とし、腰のくびれた頭の丸い蛙子丁子を交え、袋丁子・重花丁子・互の目・尖りごころの刃を加え、足・葉さかんに入り、小沸つき、処々飛焼・湯走りを見せ、金筋・砂流し細かにかかり、匂口明るい。帽子は乱れ込んで小丸となり、しばしば尖りごころに掃きかける。蛙子丁子こそ最大の鑑識点で、光忠も交えるが、これほど中心に据えた同時代工はなく、長光には稀である。祖守家はこの華やかさをもっとも強く示し、地の肌立ちと刃沸の強さにおいて隣人の長船物を凌ぐ。子と伝える真守はその見どころをよく受け継ぐが、乱れがやや小模様となる傾向があり、銘も太字の華やかな作と、長光・景光に近い小振りの作とに分かれる。光守もまた焼幅の広い匂出来の丁子乱れを焼いて守家系に近く、いずれも蛙子丁子と鮮やかな乱れ映りという同じ作域から読まれる。 鑑定の勘所は、この一門を福岡一文字や長船嫡流から分かつ点にある。長船の名手の丁子が丸く豊かに張るところを、畠田のそれは腰でくびれ、そのくびれこそ畠田の刀の運ぶ最も確かな一事である。地もまた、光忠のつむ地に対して守家の地は肌立ち、刃沸はより強く集まる。それゆえ上作が長船に紛れるとき、極めの拠るのはまさにこの肌立つ鍛えと蛙子丁子であり、無銘作では蛙子が大房に乱れるところに極めどころがあるとされる。華やかな丁子乱れの傍らに、一門は穏やかな作域も持つ。守家後期の一群は片落ち互の目・角互の目を主調とし、鎌倉後期の長船正系に通い、子守重に至っては直刃調に互の目を交える手と、景光・元重を思わせる片落ち互の目とがあって、畠田派よりむしろ長船色が濃い。守重の子と伝える守長は南北朝の代に下り、沸の盛んな相伝備前風の乱れに転じて、もはや備前の脈は丁子の交じりとして残るのみとなる。かくして一派は次第に長船派へ溶け込んでいく。守家は藤代の極めで最上作とされ、その作は重要文化財・重要美術品に及び、徳川家・細川家・上杉家・三井家・奥平家、さらに皇室の手を経て、京都国立博物館・徳川美術館・静嘉堂文庫・永青文庫などに蔵される。真守・光守の作にも紀州徳川家・薩摩島津家・伊予西条松平家・堀田家・秋元家などの伝来が録され、名家の歴史を負って今日に伝わっている。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
重要刀剣の中でも出来が際立ち、資料的価値が極めて高く、国指定の重要文化財に準ずると判断された、NBTHK鑑定の最高位です。
最高峰であり、特別重要刀剣に到達した刀剣はわずか1,211口、登録刀剣の約2,064口に1口にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトThree-day inspection period and seven-day return period; buyer notifies by email within three days of receipt, no reason needed; full refund once item returned undamaged and unaltered.
特別重要刀剣 短刀 銘 守家 1102243.22.26 fred@nihonto.com 鎌倉時代中期、備前伝の作刀は全盛を極め、福岡一文字派の巨匠たちをはじめ、長船派の光忠や守家といった名工が輩出されました。光忠は新刀期まで続く長船派の祖と仰がれる存在であり、一方の守家は畠田備前の祖とされていますが、長船の地でも作刀していたと考えられています。畠田は長船に隣接する地名、あるいは長船の一部であったとも伝えられています。藤代義雄氏の評価において、守家は光忠や長光らと並び「最上作」に列せられる最高位の銘工です。 守家は備前国畠田に住したことから「畠田守家」とも称されます。現存遺作の中に「畠田住」と切り添えた銘は見当たりませんが、「長船住」と銘じた作は存在します。このことから、当時、畠田は長船村の一部と見なされていたか、あるいは畠田派がどこかの時点で長船派に合流した可能性が示唆されます。守家の作風は、光忠や長光ら長船本流に通じる華麗なものですが、日本美術刀剣保存協会(日美工)の指摘によれば、彼らと比較して互の目が目立ち、独特の「蛙子丁子(かわずのこちょうじ)」がより強調される点にその特色があります。 畠田守家の初代の活躍時期は正嘉(1259年)頃とされています。これは、13世紀前半に生まれ、暦仁(1238年)頃に長船派を興したとされる備前光忠とほぼ同時代にあたります。また、二代守家については弘安(1280年)頃の年紀作が残されており、初代から二代へとその卓越した技量が継承されていることが伺えます。






















Hatakeda (Bizen) · 備前 · 1232-1233頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
守家銘の紀年作は文永九年(一二七二)の太刀を最古とし、説明はこの頃に、鎌倉中期備前の畠田派の祖、長船光忠と同時代の初代守家を置く。備前国畠田に在住したことから畠田守家と呼ばれるが、守家および一門の真守に「畠田住」と銘したものは今日まで未見で、「備前国長船住守家造」[[c:2]]などと「長船住」と銘することから、畠田はおそらく長船村の中の小字であったと推察されている。銘鑑はその系を福岡一文字派の守恒系に置く。
説明は数十年の指定を通じて、ほぼ同じ言葉で同工を性格づける。すなわち、その作風は同時代の長船刀工に近似するが、一般に「地がねが肌立ち、焼刃に蛙子丁子が目立つところに特色が見られる」[[c:3]]。蛙子丁子は「守家・光忠の最も特色ある焼刃」[[c:4]]とされ、畠田派の後輩に受け継がれ、光忠の子長光には稀である。鑑定はこの見どころを深部まで読む。焼刃そのものに蛙子の目立たない特別重要刀剣の太刀では、「刃方に向って谷が蛙子状」[[c:5]]となったところが随所に見られる点が、肌立ちごころの鍛えとともに大きな見所として挙げられる。無銘の作では、表裏中程の「蛙子が大房に乱れるところに守家の極めどころがある」[[c:6]]とされる。出来の高さそのものが極めを担うこともあり、生ぶ茎無銘の太刀について説明は「これ程までに技術の上がるものは守家以外にはない」[[c:7]]と記す。
太刀は腰反り高く踏張りがあって中鋒に結び、長寸で重ねの厚いものもあり、生ぶ茎の作の堂々とした姿が称揚される。鍛えは肌立ちごころの板目に地沸がつき、その上に乱れ映りが鮮明に立つ。刃文は華やかな丁子乱れに小丁子・互の目・尖りごころの刃、時に大丁子を交え、足・葉よく入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々飛焼を交え、匂口は明るい。帽子は乱れ込み、または小丸に結ぶ。乱れ映りが鮮やかに立ち、匂いの深い丁子乱れの匂口がよく冴える在銘の太刀を、説明は「彼の傑作と称すべき」[[c:8]]出来ばえと評している。
この華やかさの傍らに、説明は「穏やかな部類」と呼ぶいまひとつの作域を認める。小太刀は肌立ちごころの板目に地沸が微塵につき、細直刃基調に小互の目・小のたれを交えて匂口がしまり、現存稀な剣は小板目のつんだ鍛えに細直刃を焼いて、湯走り状の飛焼・二重刃がかかる。在銘の太刀にも、小丁子・小互の目が総じて小模様となり、小板目肌のよくつんだ精美な鍛えが称えられる一口がある。大振りの銘振りはこの穏やかな作域の上にも見られ、その小太刀は同工の作域と銘振りとの関係を知るうえで資料的に貴重とされる。代別は未決の問題であり、説明は率直である。通説は初代を光忠、二代を長光と同年代の刀工とする二代説を伝えるが、「初二代の明確な区分は、なお今後の研究課題」[[c:10]]であり、また「一人説を唱える向きもある」[[c:11]]。本間説はさらに進んで、鎌倉時代だけでも少なくとも三代を見、ほぼ同年代の守家工房に同銘を切る作者が一人ならず存在した可能性を許している。太刀の大字銘は初代とされるのが伝統だが、銘字の大小のみでは区別し難いと注意され、初代の有銘現存作は「比較的に少い」とも記される。ここに集う指定作では在銘二十二口に対し無銘五口で、多くは大振りの二字銘であり、二字銘に花押を添えた例が二口あって、光山押形所載の短刀に同例を見る資料的価値が指摘される。
同工の位置は光忠によって定まる。両者は隣り合う村で同じ年代に鍛刀し、説明は両工の作風に「やや相通うものが見られる」[[c:14]]と記す。挙げられる相違は守家自身の作に即したもので、長船物に比して地鉄の肌立つものが多く、焼刃の蛙子丁子が一段と目立つ。この焼刃は畠田派の後輩に受け継がれ、一門には「備前国長船住人右馬允真守造」[[c:13]]と銘した真守があり、守家銘そのものは南北朝の康安・建徳まで及ぶ。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は二十七口を数え、重要文化財六口、重要美術品五口、特別重要刀剣と重要刀剣の級に十五口(うち特別重要刀剣三口)が含まれる。九口に伝来が録され、徳川家(徳川家達・徳川圀順)、三井家、細川家、上杉家、奥平家、皇室と、名家の手を経ている。所在の知られるものは京都国立博物館、永青文庫、日枝神社、住吉大社などに蔵され、重要文化財の級は文化財として永く保存されて取引されることはない。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要刀剣・重要刀剣の級の十五口であるが、いずれも長く秘蔵され、市に現れることは稀である。現れるとすれば多くは重要刀剣の例であり、大振りの二字銘を有する在銘の太刀は、この名のもとで望みうる最上のものである。
守家の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備前
現在6点販売中
畠田派は鎌倉時代中期の備前国に興った一門で、長船村に直に隣接する畠田の地に住したことから、その祖を畠田守家と呼ぶ。守家および一門の真守らに「畠田住」と銘したものは未見で、いずれも「備前国長船住守家造」[[c:1]]などと長船住に切ることから、畠田はおそらく長船村のなかの小字であったと推察されている。守家には文永九年(一二七二)紀の太刀を最古として在銘作があり、長船光忠・長光と同時代に鍛えた工としてその名を立てる。銘鑑はその系を福岡一文字の守恒系に置くが、守家の作はすでに福岡一文字の古調を離れ、長船一派が古典の姿を結ぶその近き圏内に位置する。守家の代別はなお定まらず、通説は初代を光忠、二代を長光と同年代の刀工とする二代説を伝えるが、初二代を銘字のみで明確に分けることは難しく、一人説を唱える向きもあって、今後の研究課題とされている。 一門の作風は同時代の長船刀工に近似するが、地鉄が肌立ち、焼刃に蛙子丁子が目立つところに共通の特色がある。鍛えは板目に杢を交え、処々流れて肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、その上に乱れ映りが鮮やかに立つ。この肌立つ備前地に立つ冴えた映りは、ほぼ全作に挙げられる確かな見どころである。刃文は華やかな丁子乱れを主とし、腰のくびれた頭の丸い蛙子丁子を交え、袋丁子・重花丁子・互の目・尖りごころの刃を加え、足・葉さかんに入り、小沸つき、処々飛焼・湯走りを見せ、金筋・砂流し細かにかかり、匂口明るい。帽子は乱れ込んで小丸となり、しばしば尖りごころに掃きかける。蛙子丁子こそ最大の鑑識点で、光忠も交えるが、これほど中心に据えた同時代工はなく、長光には稀である。祖守家はこの華やかさをもっとも強く示し、地の肌立ちと刃沸の強さにおいて隣人の長船物を凌ぐ。子と伝える真守はその見どころをよく受け継ぐが、乱れがやや小模様となる傾向があり、銘も太字の華やかな作と、長光・景光に近い小振りの作とに分かれる。光守もまた焼幅の広い匂出来の丁子乱れを焼いて守家系に近く、いずれも蛙子丁子と鮮やかな乱れ映りという同じ作域から読まれる。 鑑定の勘所は、この一門を福岡一文字や長船嫡流から分かつ点にある。長船の名手の丁子が丸く豊かに張るところを、畠田のそれは腰でくびれ、そのくびれこそ畠田の刀の運ぶ最も確かな一事である。地もまた、光忠のつむ地に対して守家の地は肌立ち、刃沸はより強く集まる。それゆえ上作が長船に紛れるとき、極めの拠るのはまさにこの肌立つ鍛えと蛙子丁子であり、無銘作では蛙子が大房に乱れるところに極めどころがあるとされる。華やかな丁子乱れの傍らに、一門は穏やかな作域も持つ。守家後期の一群は片落ち互の目・角互の目を主調とし、鎌倉後期の長船正系に通い、子守重に至っては直刃調に互の目を交える手と、景光・元重を思わせる片落ち互の目とがあって、畠田派よりむしろ長船色が濃い。守重の子と伝える守長は南北朝の代に下り、沸の盛んな相伝備前風の乱れに転じて、もはや備前の脈は丁子の交じりとして残るのみとなる。かくして一派は次第に長船派へ溶け込んでいく。守家は藤代の極めで最上作とされ、その作は重要文化財・重要美術品に及び、徳川家・細川家・上杉家・三井家・奥平家、さらに皇室の手を経て、京都国立博物館・徳川美術館・静嘉堂文庫・永青文庫などに蔵される。真守・光守の作にも紀州徳川家・薩摩島津家・伊予西条松平家・堀田家・秋元家などの伝来が録され、名家の歴史を負って今日に伝わっている。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
重要刀剣の中でも出来が際立ち、資料的価値が極めて高く、国指定の重要文化財に準ずると判断された、NBTHK鑑定の最高位です。
最高峰であり、特別重要刀剣に到達した刀剣はわずか1,211口、登録刀剣の約2,064口に1口にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトThree-day inspection period and seven-day return period; buyer notifies by email within three days of receipt, no reason needed; full refund once item returned undamaged and unaltered.