守家銘の紀年作は文永九年(一二七二)の太刀を最古とし、説明はこの頃に、鎌倉中期備前の畠田派の祖、長船光忠と同時代の初代守家を置く。備前国畠田に在住したことから畠田守家と呼ばれるが、守家および一門の真守に「畠田住」と銘したものは今日まで未見で、「備前国長船住守家造」などと「長船住」と銘することから、畠田はおそらく長船村の中の小字であったと推察されている。銘鑑はその系を福岡一文字派の守恒系に置く。
説明は数十年の指定を通じて、ほぼ同じ言葉で同工を性格づける。すなわち、その作風は同時代の長船刀工に近似するが、一般に「地がねが肌立ち、焼刃に蛙子丁子が目立つところに特色が見られる」。蛙子丁子は「守家・光忠の最も特色ある焼刃」とされ、畠田派の後輩に受け継がれ、光忠の子長光には稀である。鑑定はこの見どころを深部まで読む。焼刃そのものに蛙子の目立たない特別重要刀剣の太刀では、「刃方に向って谷が蛙子状」となったところが随所に見られる点が、肌立ちごころの鍛えとともに大きな見所として挙げられる。無銘の作では、表裏中程の「蛙子が大房に乱れるところに守家の極めどころがある」とされる。出来の高さそのものが極めを担うこともあり、生ぶ茎無銘の太刀について説明は「これ程までに技術の上がるものは守家以外にはない」と記す。
太刀は腰反り高く踏張りがあって中鋒に結び、長寸で重ねの厚いものもあり、生ぶ茎の作の堂々とした姿が称揚される。鍛えは肌立ちごころの板目に地沸がつき、その上に乱れ映りが鮮明に立つ。刃文は華やかな丁子乱れに小丁子・互の目・尖りごころの刃、時に大丁子を交え、足・葉よく入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々飛焼を交え、匂口は明るい。帽子は乱れ込み、または小丸に結ぶ。乱れ映りが鮮やかに立ち、匂いの深い丁子乱れの匂口がよく冴える在銘の太刀を、説明は「彼の傑作と称すべき」出来ばえと評している。
この華やかさの傍らに、説明は「穏やかな部類」と呼ぶいまひとつの作域を認める。小太刀は肌立ちごころの板目に地沸が微塵につき、細直刃基調に小互の目・小のたれを交えて匂口がしまり、現存稀な剣は小板目のつんだ鍛えに細直刃を焼いて、湯走り状の飛焼・二重刃がかかる。在銘の太刀にも、小丁子・小互の目が総じて小模様となり、小板目肌のよくつんだ精美な鍛えが称えられる一口がある。大振りの銘振りはこの穏やかな作域の上にも見られ、その小太刀は同工の作域と銘振りとの関係を知るうえで資料的に貴重とされる。代別は未決の問題であり、説明は率直である。通説は初代を光忠、二代を長光と同年代の刀工とする二代説を伝えるが、「初二代の明確な区分は、なお今後の研究課題」であり、また「一人説を唱える向きもある」。本間説はさらに進んで、鎌倉時代だけでも少なくとも三代を見、ほぼ同年代の守家工房に同銘を切る作者が一人ならず存在した可能性を許している。太刀の大字銘は初代とされるのが伝統だが、銘字の大小のみでは区別し難いと注意され、初代の有銘現存作は「比較的に少い」とも記される。ここに集う指定作では在銘二十二口に対し無銘五口で、多くは大振りの二字銘であり、二字銘に花押を添えた例が二口あって、光山押形所載の短刀に同例を見る資料的価値が指摘される。
同工の位置は光忠によって定まる。両者は隣り合う村で同じ年代に鍛刀し、説明は両工の作風に「やや相通うものが見られる」と記す。挙げられる相違は守家自身の作に即したもので、長船物に比して地鉄の肌立つものが多く、焼刃の蛙子丁子が一段と目立つ。この焼刃は畠田派の後輩に受け継がれ、一門には「備前国長船住人右馬允真守造」と銘した真守があり、守家銘そのものは南北朝の康安・建徳まで及ぶ。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は二十七口を数え、重要文化財六口、重要美術品五口、特別重要刀剣と重要刀剣の級に十五口(うち特別重要刀剣三口)が含まれる。九口に伝来が録され、徳川家(徳川家達・徳川圀順)、三井家、細川家、上杉家、奥平家、皇室と、名家の手を経ている。所在の知られるものは京都国立博物館、永青文庫、日枝神社、住吉大社などに蔵され、重要文化財の級は文化財として永く保存されて取引されることはない。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要刀剣・重要刀剣の級の十五口であるが、いずれも長く秘蔵され、市に現れることは稀である。現れるとすれば多くは重要刀剣の例であり、大振りの二字銘を有する在銘の太刀は、この名のもとで望みうる最上のものである。