吉用は鎌倉中期の備前福岡一文字派に属し、銘鑑に拠れば福岡一文字助吉の子で、年代を文永の頃(一二六四〜一二七五)とする。則宗の興した一文字は備前の華やかな一群であり、その名は銘の上に切る「一」の一字に由来するが、その中にあって吉用は静かな手である。説明書はその作に一つの見立てを繰り返す。すなわち、現存する多くの作は丁子の出入りが目立たぬ穏やかな手のものであり、この抑制を同工の個性とするというものである(「丁子の出入りが比較的目立たぬ幾分穏やかな出来口を示すもので、個性的である」)。藤代の極めで上上作。
本工の特色とする刃文は、焚低く焼いた小模様の乱れ刃である。説明書はこれを小丁子に小互の目・小乱れを交え、焼に出入り少なく総じてやや小模様に乱れるものとし、足・葉さかんに入り、小汸つき、金筋・砂流しが細かにかかると説く。多くの作では地そのものが直刃調で、小丁子は福岡本流の高く起つ丁子頭ではなく、直ぐな地に焼かれる。ある重要刀剣の太刀では、説明書はその焼ろを「直刃調に小丁子・小互の目・小乱れ」を交え「総じて穏やかな出来口」と記す。説明書がその丁子を穏やかと呼ぶとき指すのはこの手であり(「丁子の出入りが目立たぬ比較的穏やかな手のもの」)、その静けさは地ではなく刃にある。
鍊えは板目に杉を交えてよく鍊れ、地汸が微塵につき、地景が細かに頻りに入る。その地に一文字らしい乱れ映りが鮮明に立ち、説明書は優品にあってこれを鮮やかと記す。ある太刀では下半に直ぐ状の映りが立ち、上半に乱れ映りが立つ。匂口は締まりごころに明るく、匂深く、帽子は直ぐに小丸となりて返り、先に僅かに掲きかけるものもある。かくて備前を示す豊かな乱れ映りはそのままに保ち、その上の刃文だけが控えられて、同工の個性はその豊かな地を背に読まれる。
説明書はこの静かな手に明らかな例外を設ける。少数の作は華やかであり、その名高い例が重要文化財の大石寺の太刀で、生ぶに堂々とし、小板目よく鍊んで映り立ち、刃文は丁子乱れを焼く。同じ華やかな手が無銘の畑島脇指を支配し、本阿弥光忠が宝永七年(一七一〇)の折紙とともに吉用と極めたものである。在銘の作に比してその刃文は、初期の指定の記すところ「如何にも刄文が大模様であり、華やか」にしても、時代と系統には異論がない(「在銘に見る吉用の作刀に比して如何にも刄文が大模様であり、華やか」)。尾張徳川家に伝わる小太刀はその華やかな手を極めて、焼幅広く、蛙子を交える(「焼幅広く、蛙子の交じった華やかな作」)。銘は一貫して小さい。説明書は縦長の二字銘、とわけ「用」の字が縦長になること(「「用」の字は縦長となる」)を同工の典型とし、銘は常に小銘であると記す(「銘は常に小銘である」)。
一派の中で吉用は、吉房・則包の輝く福岡丁子の傍らでその静かな声を担う。説明書は大石寺を華やかな極として挙げ、その処に及ばぬ穏やかな小丁子を本流に対して置く。本工の太刀は腕反り深く、踏張りのついた細身の姿で、説明書が繰り返し優美と呼ぶ姿形を呈する。年代には当コーパス内で議論がある。銘鑑の伝える助吉の子という経路は吉用を文永の頃に置くが、ある見立てはそれをやや上がりすぎるとし、作そのものから「恐らく長船長光などと同時代と思われる」と推す(「恐らく長船長光などと同時代と思われる」)。いずれにせよ、説明書は関口氏の刀のような無銘の作にあってもその極めを首肯し、匂出来の丁子とよく立った乱れ映りを同工の手に叶うと見る。
藤代の極めで本工は上上作である。その名を負う指定の数は少ないが高く、重要文化財一口、特別重要刀剣に二口、重要刀剣に五口、合わせて公の指定は十口を数える。これに対して収集家は、吉用の在銘は「恐らく十指に満たない」であろうという説明書の記述を踏まえるべきであり、その多くは穏やかな小丁子の作である。その作に録された来歴は名家を経る。徳川黎明会、そして浅野幸長の娘春姫の引出物として小太刀を受けた尾張徳川家、毛利家、そして昭和十四年の認定時に重要美術品の太刀を所持した三井高修である。所在の知られるものは二口が公的機関、すなわち佐野美術館と徳川美術館にあり、一口が個人蔵である。国宝はなく、重要文化財は文化遺産として伝えられるが、収集家が現実に接し得るのは特別重要刀剣・重要刀剣の太刀、すなわち穏やかな福岡一文字の手の在銘作であり、その市に現れることは稀にして、現れれば記すべき出来事である。