則包は鎌倉中期の備前、福岡一文字派の刀工であり、説明書はその出自と稀少さの双方について一貫している。すなわち、銘鑑は彼を福岡一文字派の助房の子とし、開祖則宗の系に列し、年代を暦仁(一二三八)頃ともまた建長(一二四九~五六)頃とも伝える。同じ説明書はほぼ各項にその遺存作が比較的少ないことを記し、有銘の則包はそれ自体が貴重な資料として扱われる。説明書は、鎌倉時代の備前物の大きな流れを一文字と長船の両派とし、一文字派が以後南北朝期にかけて福岡・吉岡・岩戸の地に繁栄したと記すが、その中で則包は最初期の古調ではなく、成熟した福岡の手に属する。彼の作風を最もよく伝える一口は上杉家に伝来した太刀で、「上杉景勝御手選三十五腰の一」として知られ、説明書はこれを「現存稀な福岡一文字則包の有銘作として資料的にも頗る貴重」と評する。
説明書が在銘の太刀に与える手は、鎌倉中期の華やかな福岡作その極みである。姿は身幅広く長寸、重ね厚く、反り高く腰反りつき先へも反り加わり、鋒は猪首風に結ぶ。そこに生じるのが、説明書のいう豪壮で迫力ある体配である。これに焼幅広く高低のある丁子乱れを焼き、上半に房の大きい丁子を目立たせ、大丁子・重花丁子を交え、足・葉さかんに入り、匂勝ちに小沸つく。帽子は乱れ込み、焼づめごころに僅かに返る。優れたものでは匂口深く明るく、刃中に金筋・砂流しがかかる。これらは、説明書のいうところ、地刃に福岡一文字派の特色を顕著に示し、則包の代表する鎌倉中期の典型的な作風として立つ。
刃文の下、鍛えは板目に杢を交え、処々肌立ちごころとなり、精美なものでは小板目によくつみ、地沸つき、地景細かに入る。在銘・極めを問わずほぼ全作に、明るい福岡の地である乱れ映りが立ち、これが備前そしてこの派への極めを支える。説明書がほぼ各項の地鉄に最初に挙げる特色がこれであり、古調の古一文字がほぼ欠くところであるから、その存在は彼の手を彼らと分かつ最も確かな目印の一つである。在銘太刀の彫物は手が込んで信仰的である。二筋樋を丸止めにし下に梵字を刻し、さらに表に「八幡大菩薩」の陰刻、裏に素剣を重ね彫りにする。この彫の構成は現存する在銘太刀二口に共通し、両者を一手として結ぶ。
遺存する作は、説明書自身が並べて対比する二つの様相に分かれる。在銘の太刀は右の幅広く華やかな大丁子の作である。これに対するのが、則包と伝える大磨上無銘の刀、また本阿弥光忠が極めの金象嵌を施した刀二口であり、説明書自身の対比によれば、これらは総じて小模様となり、小丁子・小互の目を交え、逆がかる傾向を示し、匂口はうるみごころに曇る。第十六回特重の無銘刀はこの対比を直に述べる。「則包在銘作の中には焼幅が広く、出入りのある華やかな丁子乱れの作柄のものもあるが」、本刀は「焼刃が総じて小模様となり、しかも逆がかるところ」が看取され、同工の一作域を示すという。遺る銘は生ぶ茎の太刀に二字銘、磨上げの刀には原銘を額銘として茎に嵌め込んで残す。金象嵌およびかつて附帯した古折紙は後世の極めであって本工の切銘ではない。
二つの様相の関係こそ鑑識の核である。金象嵌の刀について説明書は、その作風が「有銘作に直結する作風であることが窺い知られ、本阿弥光忠の則包の極めは至当」と記し、在銘の太刀を無銘作を読む基準とする。静かな様相はまた、この派の最も率直な自己批評を担う。第十四回の無銘刀は「僅かに疲れごころはあるが美観を失わない」と判じられ、ある額銘の刀について説明書は、丁子刃文が比較的華やかであるにもかかわらず「刃文の華やかな割合に、総体的の華やかさに乏しい」と観じ、匂口はしみごころに曇るとする。逆がかりと潤んだ匂口は、第十四回の「匂口ややウルミごころに逆がかる」の一句に合し、吉房の明るい福岡本流に対する本工無銘の手の見どころとなる。要するに彼は、映り豊かな成熟した福岡一文字として、華やかな吉房系と並び、映りの立たぬ古調の古一文字とは異なって立つ。
彼は刀工大鑑の評価において上位に位置し、その名を負う指定の重みは遺存の少なさを映す。重要文化財二口・特別重要刀剣四口を数え、さらに重要刀剣にも作を遺し、在銘の太刀は福岡一文字全体の貴重な資料として尊ばれる。来歴は大名家に集まる。在銘の太刀は景勝御手選三十五腰の一として上杉家に伝来し上杉神社に記録され、額銘の刀は享保二年(一七一七)に郡山の本多信濃守忠直の遺物として将軍家に献上され、他の一口とともに徳川将軍家を経た。所在の知れるかぎり、則包は取引されるより伝えられる。重要文化財二口は動かぬ文化財であって上杉神社や茨城の歴史資料の機関などに護られ、特別重要刀剣・重要刀剣の作も総じて僅少である。これほど稀な福岡一文字の名にあっては、私蔵の在銘作は収集家が出会いうる最も稀なものの一つであり、世に現れることは稀で、現れれば一つの画期である。