吉平は備前国福岡一文字派がその最盛期を迎えた鎌倉時代中期の刀工で、多くの伝書は宗吉の孫、吉家の子と伝え、吉房・助真・則房らと並び立つ世代に位置づけられる。銘鑑は寛元(一二四三〜四七)頃の刀工とし、文応頃とする指定書もある。派内におけるその位置は、重要美術品の指定資料に残る本間の評が端的に示している。すなわち「鎌倉時代中期の備前物の中で、最も華やかな丁子を焼くのは吉房とこの吉平である」。有銘の太刀が数口現存し、うち一口は国宝の指定を受けている。
その作風について指定書は一つの定式を繰り返す。吉房や助真ほどの華やかな大丁子乱れは少ないが変化に富み、「刃中沸づくものをよく見る」というのである。変化の中身は具体的で、丁子乱れに蛙子丁子・袋丁子が交じり、互の目やや尖りごころの刃を交え、焼の高低が目立ち、足・葉がよく入り、匂深く小沸がつき、金筋・砂流しがかかる。大出来の手は「袋・重花・蛙子丁子などを交えて変化に富む作風」と評され、第二十一回特別重要刀剣の太刀では表裏の下半が逆がかり、「吉平の作例としては類例がなく」と特記された。
地鉄は板目で、杢や流れ肌を交え、やや肌立つところに見どころがある。指定書は同時代の同派工に比して「地がねもやや肌立つ」と明言する。地沸がつき、優品では厚くついて地景を交え、乱れ映りはほとんど全作に鮮明に立つ。帽子は乱れ込んで小丸に返り、時に尖りごころとなって掃きかけ、直ぐに焼詰め風となる作もある。
作域は二様に分かれる。小出来のおとなしい手は小丁子主調で直刃に寄り、匂口が締まり、焼幅の高低が少ない。蜂須賀家伝来の重要美術品について本間は「同作としては珍らしく刃文の焼幅に高低差の少ない出来であるが、正真である」と述べる。大出来の手はその対極にあって「吉房にならぶほどに賑やかで」あり、第一回特別重要刀剣の無銘刀は「有銘の作にくらべて一層華やか」と評された。銘は通常、茎の棟寄りに太鏨で切る二字銘であるが、井伊家伝来の太刀は細鏨で小振りに切られ、「吉平の研究上好資料である」とされる。国宝の同作には腰刃を焼いたものがあるが、指定書は「これを常とはしない」と注記している。
派内で吉平を分かつのは、同工自身の記録された特色である。同輩より肌立つ地鉄、大出来の手に繰り返し現れる蛙子丁子、そして変化そのものの現れである焼の高低がそれにあたり、総体には「比較的に小出来のものが多く」とも記される。門人の伝はないが、その大出来の作は吉房と並んで福岡一文字丁子の頂点を成し、後の一文字諸派や長船の丁子を測る規範となった。
藤代の格付は上々作。指定を受けた作は十七口を数え、特別重要刀剣三口、重要刀剣七口、重要美術品四口、重要文化財三口がこれにあたる。重要文化財は二荒山神社・談山神社などに蔵され、永く保存される文化財である。九口に伝来が録される。彦根藩主井伊家に伝来した太刀は『光山押形』『埋忠銘鑑』に所載され、指定書は「腰元の棟には武功を物語る切込みも残存している」と記す。ほかに島津家・蜂須賀家・前田家・池田家・紀州徳川家の手を経た作があり、一口の鞘書には「古山城主様ヨリ被進」とある。市場に現れ得るのは特別重要・重要の階層の十口にとどまり、所在の知られるものの多くは長く私蔵されて動かない。吉平が市に出ることは稀な出来事である。