忠光は勝光・宗光と並ぶ、末備前と呼称される室町末期の長船を代表する刀工である。その名は古く、銘鑑は初代を正応あるいは元亨頃に置き、永禄・天正まで数代を数えるが、最初期の工には作例を見ず、経眠したかぎりでは貞治年紀のものが最古である。一般に著名で、年紀ある在銘作がその記録のほとんどを占めるのは、彦兵衛尉を冠する工であり、文明・延徳・明応(一四六九~一五〇一)に働いた。説明書はその位置を端的に記す。勝光・宗光と並んで末備前の代表鍛冶に忠光があり、同名の数工のうち「中でも彦兵衛尉を名乗る忠光が最も上手である」とする。
説明書がその個性とするのは、何よりも一つの質である。本来華やかな丁子・互の目の刃で知られる一派のなかで、本工は直刃の名手なのである。説明書は端的に「忠光は末備前刀工中の直刃の名手であり」と称え、この定評は年代を下って諸作に繰り返される。その典型作は、中直刃あるいは浅くのたれた広直刃を焼き、匂口締まって明るく、小沸つき、小足・葉を刃中に交え、金筋・僅かな砂流しがかかる。帽子は直ぐに小丸となり、時にやや長く焼下げる。静かで精緻な刃であり、収集家がその手にまず読むところである。
その静かな刃を支えるのは、下なる地鉄である。本工の地がねは小板目のよくつんだ地に地沸つき地景入り、処々やや肌立つもので、説明書はその清らかさに繰り返し立ち戻り、二つの作において「地がねが如何にも綺麗で」と評する。大振りの作の広い板目には淡く棒映りが、最も華やかなものには地に乱れ映りが立つ。末備前のなかでも本工は「鍛上手」として古くから聞えていたと説明書は記し、この地の精錬こそ、その二つの刃の据わる不変の基である。
一手のみの工ではなく、いま一つの手が備前本来の乱れ刃である。説明書は「忠光には直刃の上手な作品が多い」としつつ、ここに乱れ刃を焼いて勝光・宗光に劣らず、「備前本来の乱れ刃もまた得意」とする。これには腰の開いた互の目に小互の目・小丁子を交え、足・葉よく入り、小沸つき、砂流し・金筋、時に飛焼を交え、帽子は乱れ込んで小丸あるいは尖りごころに返る。その作はほぼ室町末の作風に拠り、寸の詰まった片手打の打刀に先反りつき茎短く、ある説明書が言うように「片手の抜打に適するため」に造られ、表裏には末備前の宗教的彫物、草の倶利迦羅・梵字・八幡大菩薩の神号を彫る。また則光と並んで備前の佳き槍の数少ない作者にも数えられ、その槍・大身槍は流れた板目によく錬れている。
彦兵衛尉忠光を分かつものは、それゆえ、借りものの比較ではなく、本工自身の作のうちから極めの言うところによって名指される。同じ長船の勝光・宗光が華やかな互の目と腰の開いた丁子の刃で読まれるのに対し、忠光は明るく締まった直刃と、説明書が上手の鍛冶の証と称える清い地鉄で読まれる。そして乱れに転ずれば、それは備前本来の線で、諸工に劣らぬものである。彼は両者と共に末長船の頭に立ち、数口は同名の工との合作で、一口は彦三郎との作で「忠光がその個名であることは判然としている」とされ、一口は九郎左衛門との作で、忠光を銘する二人が一口を合作するという点が殊におもしろいとされる。延徳二年紀の刀には作州飯岡郷に出張して鍛えたことが記され、備前の工が国境を越えて美作で作刀している。
収集の観点では、稀にみる知り得る名であり、かつ手の届く名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もない。その標は重要刀剣に列する二十二口にあり、刀・脇指・短刀・槍・大身槍にわたり広く年紀を見、在銘の短刀三口が御物に伝わり、一口は山野永久の截断金象嵌銘を有する。来歴の知られるものは僅かで、皇室、また所持銘の井手徳一・注文主の渡辺新左衛門の名が挙がる。封じられた指定を負う作が少ないがゆえに、在銘年紀の忠光は長船の大きな名のなかでも比較的世に出やすく、時に市場に姿を見せる。重要刀剣の一口は、ほとんど必ず在銘で、しばしば年まで切られており、その作者と月とを茎から直に読み得る、末備前最盛期の確かな証である。