初代河内守国助は堀川国広の末弟子である。慶長十九年に国広が歿した後、親国貞こと和泉守国貞とともに大坂に移り、大坂鍛冶の先駆者となって、その後の大坂鍛冶に大きな影響を及ぼした。説明書は、彼が伊勢国神戸の出身で石堂派の流れを汲むと伝え、その初期の作風・銘振りから、実際上の師は兄弟子の越後守国儔であったと推測する。河内守受領については、寛永三年二月日紀の「河内守藤原国助」銘の薙刀・短刀が現存し、それより遡る河内守銘の遺例もあることから、元和九年、親国貞の和泉守受領と相前後するものと推量される。年紀作の最も早いものは寛永三年紀で、歿年は正保四年と伝える。
石堂の出であることが彼の手を読む鍵である。説明書は、堀川一門中にあって彼が「最も丁子を得意とし」、乱れのどこかにそれが表われると記し、後年の説明書は「刃中に丁子刃が最も多く交じるものである」とする。これこそ堀川一門の中で国助と鑑せられる見どころである。
典型は区上の直ぐの焼出しより起こし、その上は互の目に丁子・小のたれ・尖りごころの刃を交えて焼幅を広げ、足入り、小沸よくつき、砂流し・金筋かかる。地鉄は小板目或いは板目がよくつみ、地沸厚くつき、地景が入る。帽子は小丸で掃きかけることが多い。作風は親国貞に極めて類似するが、説明書は「焼幅が広く、丁子が目立っているところなどに特色がある」とし、焼出しが上に行くに従って徐々に幅を増し、帽子の焼が深いことを挙げ、かかる刀を「彼が最も得意とした作域」と読む。
もう一つの面には堀川の出がはっきり表われる。ある片切刃の脇指は板目が立ってザングリとなり、沸づいた小のたれに互の目を交え、説明書はこれを「堀川色の濃い作風」とする。また「関風の色彩が感じられる」脇指は国儔との師弟関係を示すものとされ、国儔の作域や親国貞を想わせる作もある。同作に彫物は稀で、薙刀樋・護摩箸・倶利迦羅を施したものは珍しいとされる。
説明書は子の二代河内守、世にいう中河内とは明確に区別する。二代は名を継いで石堂本来の丁子に専心した。初期の説明書には、目立つ丁子刃を二代の丁子の前提とみるものがある。寛永十九年紀の作を初代の晩年作とするか、正保四年以前の二代作とするかは論じられている。
藤代の極めは上々作。重要刀剣に三十二口が列し、戦前の重要美術品一口、御物一口がある。説明書は最上の在銘刀を「同作中の傑出の一である」とし、他を「彼の典型作である」と評し、寛永三年の薙刀について「寛永三年紀も好資料である」と記す。来歴の知られるものには板倉家・皇室の名が見える。現存作は比較的少なく、殊に刀は少ないため、初代の在銘重要刀剣が世に出るのは時折のことである。