延宝三年(一六七五)六月晦日紀の刀の裏には、棟寄りに切られた吉武の銘に応えて、富田重綱が三ッ胴を両度に切断したことを記す金象嵌の截断銘がある。吉武は山城、のちに江戸の堀川一門の刀工で、堀川国広の門人である平安城国武の子である。俗称を川手市太夫と云い、出雲大掾を受領して後に出雲守に転じ、晩年は入道して法哲と号した。国広は京都新刀の堀川一派の祖である。説明書は、父国武が堀川一門でも最も平凡な刀工であった一方、吉武は「父に優る名工」であり、よき地鉄の上に「堀川物の豪放さを伝え」るとする。その紀年作は延宝三年から天和を経て正徳元年(一七一一)に及び、京都から新府の江戸へと移った歩みをたどる。
本工の認める本領は、広く落ち着いた直刃である。説明書は「直刃調の出来を得意としている」と明記し、その作風を法城寺一派に並べて、多くの作に同派に見るような直刃があるとする。紀年のある延宝三年の刀では、焼刃は広直刃調に互の目を交え、足入り小沸つき、匂口深く、地鉄は杢を交えてよくつんだ小板目に地沸つく。姿は身幅広く反り浅く中鋒の堂々たる鎬造、茎は生ぶで先入山形、鑢目は筋違ないし勝手下り、截断銘の作では棟寄りの長銘の裏に重綱の金象嵌截断銘が応える。帽子は直ぐに小丸へと返る。
この落ち着いた一面の傍らに、いま一段の活気ある出来が走る。杢を交えた小板目・板目の地鉄は時に肌立ちごころとなり、腰元に大肌を交え、総体に地沸つく。これが説明書の認める良き堀川の地鉄である。説明書が彼の最高作の一本に挙げる天和の刀では、刃文は小のたれに互の目・耳形の刃を交え、足・葉入り、匂口深く冴え、小沸よくつき砂流しかかる。帽子は直ぐに小丸、掃かけかかる。いま一口の最高作では、のたれ調に互の目・大互の目を交え、匂い深く沸よくつき、僅かに砂流しが下半を渡る。この一面はやがて説明書が「濤欄風の乱れ刃」と評するところに及び、静かな直刃よりもむしろこの互の目出来にこそ、本工の手の広がりが最もよく見える。
二様の出来は、彼の生涯の前後と交わりとに応じている。説明書は、吉武が元来は堀川一門の流れを汲みながら、江戸ではその作が法城寺一派に近づいたことを記し、その証として法城寺正照との合作を挙げる。そこから同派と相当に深い関係にあったことを察し、乱れ刃の互の目出来にもその結びつきが裏づけられると読む。本領の直刃は、彼らの説くところ、まさに法城寺一派の作風である。銘もまた同じ弧を描く。最初期の紀年作は出雲大掾藤原吉武と大振りの長銘を棟寄りに切り、後の作には正徳元年紀があって「法哲入道」と銘し、この頃には出雲守に転じている。
四口の指定刀のすべてを通じて説明書が押すのは、吉武がその出自たる父を凌いだ点である。国武は堀川一門の平凡な工に数えられ、説明書は子を父に直に比して、吉武を父に優る名工とし、堀川の豪放さを健全な地鉄の上に伝えた工とする。ゆえに本工の見どころは二重である。説明書がその得意とする広い直刃と、その傍らに据える江戸期の濤欄調の互の目乱れ、一は静かに一は活気あり、いずれもよくつんだ小板目・杢の地鉄に地沸つく地に焼かれる。説明書は個々の刀を「傑出の一口」とし、また最高作と評する。それは一派の亜流ではなく、その出自を抜け出た一個の手として貴ぶ言葉である。
吉武の記録上の作は少なく、悉く在銘である。すなわち四口の刀、いずれも重要刀剣の位で、国宝も重要文化財もなく、大名家伝来の記録もない。四口のうち二口には富田重綱の金象嵌截断銘があり、一は二ッ胴、一は三ッ胴を記して、作を延宝三年に結びつけ、焼刃を超えた資料的な重みを添える。藤代は本工を上作とし、第一流というよりは確かな技倆を量る。指定刀は私蔵にあり、審査の頃には埼玉・茨城・東京の所蔵を経ていた。この位の在銘吉武は、国宝のように手の届かぬものではないが、僅かな数しか残らず、截断銘の作はことに稀で、市場に現れることは稀である。截断銘の一口が出れば、それは目に留まる出来事である。