国輝は、通称を小林隼之進といい、初代国助の四男、二代国助すなわち中河内と呼ばれた工の弟である。諸書は『新刀弁疑』により、寛文十一年、すなわち一六七一年に伊勢大掾を受領し、翌年春に伊勢守へと転じ、十八世紀初頭の正徳頃まで生存したと伝える。元禄十年から十二年にかけては阿波に赴き、「於阿州徳島作之」「於阿州椿泊作之」などと駐鎚地を添えた在銘作を遺しており、諸書はこれを好資料として扱う。
彼が知られる手は、兄国助とは趣を異にする。よくつんだ小板目に地沸が微塵に細かくつき、地景が総体に繊細に入る地鉄の上に、彼は津田家の濤瀾、すなわち濤のごとくうねる大互の目を二代津田助広に倣って焼き、そこにさらに互の目を交えた。諸書はこれを彼の最も得意とした作風と名指し、「津田風の濤瀾乱に互の目を交じえた作風を得意とし」と記す。延宝五年紀の代表作の脇指では、足が刃に入り、匂深く小沸厚く、僅かに砂流しがかかり、匂口は明るく冴える。脇指ながら身幅広く反りやや高く中鋒延びごころとなり、全体は豪壮に読める。帽子は直ぐに小丸となってやや長く返る。
その華やかな文様と並んで、彼は諸書が濤瀾の得意作と明確に対比する、より静かな作風をも焼いた。直刃を基調に浅くのたれごころを帯びるものである。晩年の一刀ではそれは直ぐの焼出しに始まって小のたれに上り小足が僅かに入り、いま一刀では中直刃調をなして足が長く入り、逆足とは反対のいわゆる京逆足の形をとる。いずれにも沸は厚くつき匂は一際深く、金筋・砂流しが幅の中によくかかり、一刀の中程には喰違刃・湯走り風が、いま一刀の物打辺には淡い棟焼が交わる。匂口は明るく冴え、帽子は焼深めにやや直線的となって小丸に返り、先尖り気味に深めに返って細かに掃きかける。
二様は単なる変化ではなく、意識された手本の問題であると諸書は読む。直刃基調の刀を、足の長さと強さ、匂の深さ、匂口の明るく冴えるさまから井上真改に倣ったものとし、「正に井上真改の作を髣髴とさせるものがある」と記して、地刃の境に二代助広の直刃に見られる奉書紙を裂いたような細かな働きを看取し、二人の名工を意識しての作と読む。晩年作の最も確かな外的な徴は茎そのものにある。元禄頃から彼の茎は独特の御幣形をなし、先が御幣の折られた紙のように開いて、先刃上がり栗尻に大筋違・化粧鑢で仕立てられ、指定作すべてがこれに触れる。諸書はまた、彼の技術が濤瀾乱れのみならずこの作域にも及ぶとし、「濤瀾乱れの作柄のみならず、この手の作域に於ても彼の技術の高さが理解される」と記し、いま一刀のより直刃・のたれを主調とした作については、常にも増して放胆で野趣に富んだ覇気ある出来とする。彼の彫物も、現れる時には同じく個性的である。一刀には竹を剣に見立てた倶利迦羅の一種である竹巻龍を彫り、裏に摩利支尊天の陰刻を添えるが、諸書はこの構図が他に例を見ないとして「この手の構図は本作以外には未見」とし、彼の彫物研究上の貴重な資料とする。
国輝は、勢威よりも指定作を通じて鑑賞者の出会う工であり、その記録は規模においても調子においても控えめである。書付上の作は重要刀剣四口、いずれも在銘で、それ以上には進まず、これは正典の名工というより大坂晩期の有力な手に相応しい。『刀工大鑑』はこれを新刀の工の中位に評価する。伝来は、遺るかぎりにおいて乏しく、彼自身の記録から大名家の所伝や所蔵機関を主張することはできない。一口を定めるのは刻銘そのものである。すなわち、棟寄りに切られた太鏨の長銘、阿波の駐鎚地、そして御幣形の茎である。井上真改と二代助広の歿した後、諸書は彼を大坂鍛刀界に残る第一人者と記し、「助広・真改の没した後は、大阪鍛刀界の第一人者として重きをなした」とする。在銘の国輝は度々市場に出る刀ではなく、出るときには、真改と助広が去った後の大坂をまとめた工の作、津田風の堅牢な元禄の刀として迎えられ、その茎だけでも、注意深い眼にはそれが誰の手かを語る。