和泉守国貞は、元和七年八月紀の刀に「摂州大坂住藤原国貞」と銘を切っており、この一銘がその人と時とを定める。すなわち、すでに大坂に居を構えた堀川門の工であり、やがて大坂独自の鍛刀の伝統となるものの草創に立つ。世に「親国貞」と称するのは、説明書が明記するように、その嗣である後の井上真改、すなわち「養子井上和泉守国貞」と区別するためである。本工は日向に生まれ、京に上って堀川国広の門に入ったというが、慶長十九年に国広が歿した時、国貞はわずか二十五歳であり、その初期の作風・銘振りから、実際には兄弟子の越後守国儔に倣ったものと鑑られる。師国広の没後、同門の河内守国助とともに大坂に移り、元和九年に和泉守を受領し、晩年は入道して道和と号し、慶安五年に六十三歳で歿した。まさに「大坂鍛冶の開拓者の一人」である。
その典型は、慶長新刀の趣ある身幅広く堂々たる刀で、元先の幅差少なく、重ね厚く、中鋒または大鋒に延びる。鍛えは板目にしばしば杢を交え、やや肌立ちごころとなり、地沸厚く地景頻りに入る。肌の開くところを説明書はザングリとした堀川派の地と呼び、師の地鉄を大坂へ伝えたものとする。その地鉄の上に、のたれを基調として互の目・小互の目・丁子を交え、刃は江戸ぶりの直ぐな短い焼出しより起こり、匂深く小沸よくつき、砂流し・金筋かかり、しばしば棟焼や流れる飛焼を交える。帽子は直ぐに小丸、あるいは乱れ込んで掃きかけ、やや長く、または深く返る。最上手の作には彫物を加え、櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、梵字に護摩箸を添える、説明書が特色ある見事と評し本工の見どころに数える彫である。
地鉄は刃の下に終始変わらぬ地である。板目に地沸厚く地景頻りに入る肌が各作に現れ、時にあのザングリとした肌に立ち、時によくつむ。匂口深く明るく、刃縁の小沸は変わらぬところで、その働きは高い丁子の房ではなく足・葉、砂流し・金筋に托される。第二十七回特別重要刀剣のある刀が幅広く覇気ある出来に向かうところを、説明書は、事実上の師である国儔よりむしろ国広自身の悠揚せまらざる作域に近いとし、小丸下がりの帽子と棟焼の頻出を親国貞自身の見どころとして挙げる。匂口は時に深く、時に沈みごころとなり、その匂口と沸のつき方に意を凝らした変化こそ、本工の手の一部である。
作には三つの面が通う。第一はこの堀川の地に焼く典型ののたれ互の目の刀である。第二は師たちを遡る相州風の手で、説明書はある重要刀剣を、丁子目立たずしかも盛んな、師に倣った志津風の作とし、ある脇指を「相州貞宗の風を模して出来がよい」とする。第三は晩年の明るく穏やかな直刃で、説明書は「親国貞の直刃出来は上手ながら」、現存するものは頗る少なく、その作が「一見してむしろ二代真改の作に近い」と記す。この晩年に道和の草書銘が属し、説明書はこれを晩年の作とし、二代の井上真改が代作代銘に多く任じたと伝える。ある草書の刀が初代自身の作か真改の代銘か、またこうした作を二代真改国貞と読むべきか否かは、説明書がなお研究に委ねるところである。
本工を分かつものは、その極めの言うところである。古備前・山城のよくつんだ小板目に対して、立つザングリの地と直ぐの焼出しより起こるのたれは、備前丁子ならぬ大坂新刀の手であり、子真改の一層明るく精良な鉄に対して、初代の手は大坂の伝統が育つより粗く覇気ある根として読まれる。説明書は河内守国助とともに本工をその草創の頭に置き、事実上の師国儔をその背後に、師国広をさらにその背後に置き、嗣の真改がその名を最も名高い世代へと継ぐ。
収集の観点では、手の届くところにありながら稀な、大坂新刀の大名跡である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣に数多く、特別重要刀剣三口と戦前の重要美術品数口に及び、特別重要刀剣・重要刀剣の級に八十四口が立つ。残る来歴は名高く、皇室、真田家、生国日向の伊東家を経た作があり、ある重要美術品は今佐野美術館に蔵される。説明書はその在銘刀に最上の言葉を惜しまず、ある一口を「初代国貞の典型作で殊に匂口が深く華やかで同作中傑出の一口」とし、相州風の特別重要刀剣を端的に「親国貞会心の一口」とする。その多くは伝えられて売買されず、特別重要刀剣・重要刀剣の級でも十年に数口が世に出るに過ぎない。健全な在銘の親国貞は、時に、根気をもって私蔵に入ることがあり、世に出れば確かな獲物であって、大坂の鉄の草創を語る一証である。