在光(ざいこう)は備前長船の末備前の刀工群のひとりで、指定を受けた刀四口は永正三年(一五〇六)から永正九年・永正十七年を経て大永六年(一五二六)に至る年紀を帯び、室町時代後期の盛りに位置する。銘鑑には同銘六名を挙げる。その中で代表の手は永正元年(一五〇四)に出雲守を受領した在光であり、説明書はこれを美濃国関の和泉守兼之と同年の受領と記す。さらに長船の光の字を名に持つ工の中で、「受領名のある光の作品は頗る少ない」とする。本工は勝光・祐定の系とともに名を伝えた十六世紀の大いなる長船に働き、説明書はその作が「応永備前の作風を継承」するもの、すなわち先行する盛光・康光・師光の手を継ぐものとする。
その手を最もよく分かつのは腰の開いた互の目、腰開きの互の目であり、これが全作を読む基となる。説明書が腰開き・腰のひらいた・腰の開いたと書き分けても変わらない。その線に丁子を交え、それが目立つために判者はある刀を、末備前の中にあって「末備前の中でも丁子の目立った作風を示しており、出来がよい」と挙げる。丁子とともに小互の目・尖り刃・角張る刃を交え、処々で刃が二重となって複式の乱れとなり、静かな刃ではなく賑やかで変化に富む刃となる。足・葉よく入り、匂口を主調に小沸を伴い、細かな砂流しがかかり、部分的に金筋を交え、出来のよい一口では湯走り・小さな飛焼が刃の上に現れる。帽子はこの乱れを追って乱れ込み、先尖りごころ、あるいは小丸に返り、時に掃きかける。
その刃の下の地鉄は、長船の血を静かに語る証である。小板目がよくつんで小杢目を交え、地沸が微塵につき、細かな地景が入る。最も身幅広く手の込んだ刀では肌がやや立って刃寄りに流れ、最も練れた作では肌は静かに締まる。そのいずれにも映りが立ち、三口に淡く、永正九年の刀では鮮明な乱れ映りが地に立って、室町後期のこの遅い時代にあってもなお古備前の地を名乗る。姿は室町後期の打刀、説明書のいう「典型的な室町時代末期の打刀様式」であり、鎬造に庵棟または三ツ棟、身幅広めに重ね厚く踏張りがつき、反り深く先反りつき、中鋒で、寸つまり茎短い。棒樋を掻き、時に丸止めとし、永正九年の一口には表裏腰元に神号、表に八幡大菩薩を陰刻する――末備前にまま見る手法と説明書は記す。
現存する記録はことごとく在銘で、太めの鏨で大振りに切った長銘が四口、いずれも年紀を帯び、これが判者の立ち返る資料的価値である。年紀により四口は出雲守在光に合致し、一口はその年紀を資料的に貴重とされる。しかし記録は閉じてはいない。永正十七年の刀について説明書は、年紀は出雲守在光に合致するが、銘字は常のくだけて個性的な手と異なり、次郎左衛門尉勝光や与三左衛門尉祐定の銘に類似する手慣れて流暢な鏨使いを示すとし、また別の一口では銘字に異なる点があるとして、同人か否かを「今後の研究に俟つべき」ものとする。かくして本工の名は、多くの優れた手が数少ない工房の内に銘を切り、一つの銘を必ずしも一人に帰し得ぬ末備前の未決の問のひとつに連なる。
その賑やかな末期の長船の中で、本工自身の見どころが他と分かつ。判者は借りものの比較ではなく本工の典型をもって導き、「在光一流の出来口」、すなわち腰開きの互の目に丁子と複式の乱れを交え、つんだ小板目に鮮明な乱れ映りの立つ手を挙げる。これこそ無銘の末備前を本工へ向ける特徴である。説明書は本工を末備前の中で「秀抜な技倆を示す刀工」のひとりに数え、比較が生じればそれは遠い伝統ではなく、同じ工房・同世代の勝光・祐定に向かう。その鏨の銘、神号の彫、年紀のある寸つまりの打刀の姿は、応永の手を量産刀の世に運びつつ、名のある工の入念で個性的な面を保つ、十六世紀初頭の長船の作者として本工を確かに位置づける。
収集の観点では、在光は名高い名というより、静かで稀な末備前の名である。国宝はなく、重要文化財もない。記録は重要刀剣の列にとどまり、四口を数えるのみで、説明書は本工の現存作が比較的少ないことを再三述べ、最上手を、「その技術の高さを遺憾無く示す」入念な優品と評する。記録された刀のいずれにも名のある所持者の伝来はなく、現に蔵する機関も記録に残らぬため、正直に言えばその作は多く所在の知れぬ私蔵に伝わり、世に現れることは稀である。在銘・年紀を備え、重要刀剣に列し、応永備前の地を継ぐ在光の刀は、辛抱強い収集家が容易にではなく折にふれて出会い得る末期長船の一口であり、出会えば、工房の鑑識家が尊んだ丁子の刃のためにも、年紀と銘の資料的な重みのためにも、研究に値するものである。