柳川派は、江戸中期に興った町彫の一派であり、横谷家の門流に連なることから、審査説明においても「横谷門下柳川派」と一貫して位置づけられている。家祖柳川直政(元禄五年・一六九二〜宝暦七年・一七五七)は、吉岡因幡介および横谷宗珉に学び、江戸お玉ヶ池に住して一家を成した。直政は実子に恵まれなかったため門人の育成に心血を注ぎ、歴代当主は「直」の一字を継承している。二代直光ののち、直故の実子にして家祖直政の嫡孫にあたる直春は、生後まもなく父が急逝したため直光の後援指導を受けて修行し、寛政年間に直光が隠居すると柳川家三代目の家督を相続した。直春は実子の直連や河野春明らを輩出し、江戸の彫金界を盛り上げていった。
その作風は、横谷伝来の技法体系を基幹とする。すなわち赤銅魚子地に高彫(多くは据文)を施し、金・銀・四分一等の象嵌色絵を加える彫法を本領とし、片切彫にも優れた。作品は小柄・笄・縁頭・目貫・鐔を中心に、獅子牡丹・虎・唐人物などの古典的画題や福禄寿等の人物図を得意としている。なかでも直春の「以宗珉図」と銘した福禄寿図縁頭は、「高低差の大きい高彫象嵌色絵は実に見事で、宗珉に肉薄した出来映え」と評され、的確に配置されて施された象嵌や色絵とあいまって、宗珉様式を規範として堅持した同派の姿勢を如実に物語っている。また師の名から一字を授かって名乗りとする師弟相伝の慣行も同派の特色であり、加藤直常や石黒政常らの銘にその跡をたどることができる。
柳川派の意義は、自派の作域にとどまらず、江戸後期の金工諸派を生み出した母体としての役割にある。柳川派の加藤直常に学んだ石黒政常は、直政の「政」と直常の「常」の各一字を組み合わせて政常と名乗り、「柳川家の作風を脱し、花鳥図に工夫を凝らし独自の作風を確立」して石黒家を興した。同家は明治まで代々栄え、その門下には双璧と称された政美・政明をはじめ、是常・政英・政広など多くの上手が名を連ねている。また柳川直光に師事した菊岡光行(寛延三年・一七五〇生)は菊岡派の創始者となり、「精巧堅実な彫法に定評がある」と称された。さらに直春門の河野春明の系流は、「師春明の作風をよく受け継いでいる」と評される大石明親らを通じて幕末にまで及んだ。かくして柳川派は、赤銅魚子地高彫色絵に代表される横谷風の彫技を江戸金工界に広く伝播させた要枢の存在として、刀装具史上に確固たる位置を占めている。