河野春明は通称を河野文蔵といい、天明七年に江戸に生まれ、十五歳で横谷系の柳川直春の門に入った。はじめ春任と銘し、文化年中に春明と改めた。文政四・五年頃に法橋に任じられ、まもなく法眼に進み、記録に残る銘の殆どにこの位を添える。説明書は後藤一乗と時代を同じくして活躍した江戸金工を代表する一人とし、「西の一乗に対して東の春明と称された」と記す。多くの門弟を養い、安政四年に越後で没した。
その作風は柳川派の絵風彫刻を基とするが、説明書は「その理想は後藤家にあったと思われ」とする。師の柳川直春をはじめ横谷宗珉、後藤家を彫法の源流とし、さらに独自の作域を見せた。赤銅は「鳥の濡れ羽色と称された良質の赤銅」で、その上に燦然たる金色をはじめ種々の色金を駆使して写実風の端麗な画面を示し、高彫色絵の技法が見事である。その端々には「後藤流の重厚な刀法が認められる」と説明書は記す。
技法は多岐にわたる。赤銅魚子地、四分一磨地・石目地、鉄地、金無垢を用い、高彫・鋤出高彫・容彫の目貫に平象嵌・片切彫・時雨の毛彫を交える。五十六歳の作の菊花図小柄は「常にも増して細密濃麗の感があり」とされる。天保十四年、五十七歳の河童図鐔は河童に金の摺りへがしを施し、裏に微小の蛙を赤銅象嵌し、時雨の毛彫や流水の片切彫を見せる。金無垢の縁頭には無数の亀を彫り、各々の顔つきから甲羅の文様まで見事に違える。
画題は後藤家の正統から洒脱なものにまで及ぶ。俱梨迦羅龍図三所物は画題・彫法ともに後藤家を念頭において入念に作られ、その「法眼春明」の銘は文政年間の壮年期に僅かに見るものとされる。これに八幡太郎義家の乱雁の図、緋色銅に金銀を施した仁王、蝦蟇・鉄拐の両仙人、夜陰の木菟、月下の阿福、福禄寿、宗祇の句を添えた小柄が並ぶ。説明書はその作に江戸趣味の瓢逸さを見、乞巧奠図鐔を「春明ならではの情緒が満ち溢れる作品に仕上がっており」と評する。
春明は旅を好み、その銘がこれを伝える。文政頃には東北や北関東に遊歴し、地方の富豪や豪農の注文に応じて製作し、仙台にはいくつかの名作を残した。文政十一年の乞巧奠図鐔は「於東羽亀ヶ崎」と添銘し、晩年の嘉永・安政年間には越後に遊んで「遊北越」の添銘作を遺す。また十方翁の号を目貫や鐔に用いた。燕と蒲公英を配した春景図鐔は六十余歳の老境の作ながら清暉溌剌とした画面とされる。
収集の上では、春明は幕末江戸金工の重鎮で、重要刀装具の格に十八点を数え、鐔・小柄・目貫・三所物、さらに春明の金具を用いた脇指拵二点を含み、うち一点は各金具に年紀と法眼銘を刻する。小柄二本は竜獅堂の旧蔵である。それ以上の指定はない。在銘の作は折に触れて現れ、色絵高彫の濃麗な年紀入りの一作は、江戸後期の金工を集める者にとって得がたい出会いである。