河野春明は、天明七年(1787年)に江戸で生まれ、横谷系の柳川直春に入門した。はじめ春任と名乗ったが、文化年中に春明と改名している。文政四・五年頃に法橋に任じられ、間もなく法眼に叙せられた。同時代に活躍した後藤一乗と並び称される江戸金工の代表者の一人であり、その活躍範囲は江戸に留まらず、文政頃には東北や北関東に遊歴して作品を遺し、晩年の嘉永・安政年間には越後地方に遊び、同地で歿している(安政四年没)。作には「於東羽亀ヶ崎」や「遊北越」などと添銘したものも見受けられる。多くの門弟を養育したことも特筆される。
春明の作風は、師である柳川直春の彫法を基盤としつつも、後藤家の作風を理想とした重厚な刀法が認められる。いわゆる「鳥の濡れ羽色」と称された良質の赤銅を用い、燦然たる金色をはじめとする種々の色金を駆使した色彩感覚に優れ、写実風の端麗な画面を示す高彫色絵の技法に長けている。赤銅魚子地の作品が多く、金、銀、赤銅、素銅、四分一などの色金を高彫や容彫で効果的に配し、金平象嵌などの技法も用いている。また、四分一石目地や四分一磨地といった地金も用いる。画題は人物、動物、故事など多岐にわたり、洒脱でユーモアを含んだ作風も特徴である。添えられた箱書から竜獅堂に所蔵されていた作品も確認できる。
春明の作は、江戸趣味に溢れた瓢逸さも見られ、時流に迎合した作風も有する。その作風は、横谷宗珉、後藤家という源流を基礎としつつ、独自の作域を見せている点に、幕末金工の一偉人たる所以がある。西の後藤一乗に対し「東の春明」と称され、その高い技術と芸術性は高く評価されている。