菊岡光行は、横谷派柳川直光の門人であり、菊岡派を樹立した。子に光朝、実弟に光政がいる。光行・光政の兄弟は江戸の有力金工であり、俳諧師としても著名な文化人で、共に父祖からの譲り名「占涼」を号とした。光行は寛延三年(1750年)に神田鍛冶町で生まれ、年紀作には天明元年や寛政九年の紀があり、寛政十二年(1800年)に五十一歳で没している。通称を利藤次といい、自らも三代沾涼と称した。江戸神田大工町に住したという。崔下庵、独歩斎、活剣子、睡眠舎などと号した。
作風は赤銅魚子地に金紋や高彫の横谷風の彫法で、獅子・動物・人物・鳥類等の図をあらわす。柳川家の薫陶を得て大成していることから、柳川風の獅子を最も得意としている。小柄は素銅魚子地、高彫、金色絵、裏板金。目貫は素銅地、容彫、金・赤銅色絵、陰陽根の仕立てなどがある。総金無垢造りの作もみられる。作域は広く、縁頭、小柄、笄、目貫、鐔などを手掛けている。
菊岡光行の作は、周到堅実な菊岡流の作風を確立しており、精巧堅実な彫技に定評がある。横谷獅子、柳川獅子といわれるものに近く、技術も宗珉・直政に伯仲するものが認められる。宗珉に範をとった構図と彫法は実に見事であり、斬新で力強さに本領がうかがえる。同作中の傑作と評されるものもみられ、町の金工の代表作として傑出している。